7/19 アンケート13号の評価
アンケート13号(総数 146.講演会参加者は 102)の結果をお知らせします.「自分の意見が載っている,載っていない」「教員のコメントの内容」などは成績評価や回答内容の質には全く関係ありません.
複数の同一回答は,原則的に最初に目についたもののみを採用しました.
原文の一部を修正したものがあります.
男子・女子の区別は氏名に基づく判断です.もし間違っていたら遠慮なく申し出て下さい.
今週は通常の講義の代わりに,安齋育郎立命館大学教授の講演「超能力を科学する ―人はなぜだまされるのか」を聞いて感想文を書いてもらいました.他の授業があって講演会に参加できなかった人は,その旨を伝えてもらえれば出席扱いにします.
- 根拠のないオカルトや占いを信じるのではなく,現在の社会に起こっている諸問題を解決していくべきだということが分かった.「どんなに気に入らなくても事実は事実として見据えることが肝要」安齋教授はこのようなことを言いたかったのだと思う.超能力を信じていたわけではないけれど,見ている側には不思議で解くのが難しい.それは人間が理性を持ち始めたからであり,見えないものまで何とか理解しようと思い込みをしてしまうのだと思う.自分が不思議だと思うことに「なぜ?」と問いかけていけるようになりたい(1年女子)(この「思い込み」こそ sa.mskaara に他なりません)
- ところどころアジア文化論の授業に関係のあるところがありましたね(1年女子)(この点を指摘してくれたのはあなただけでした.きちんと私の話を聞いていてくれたということがよく分かります)
- 自分は血液型占いを信じていたので,今日の話は興味深かった.たしかに知らず知らずのうちに自分にも差別意識があったのかも知れない.自分にはひとを差別する心はない! と思っていただけにショックだった(1年女子)(だからこそ「どんなに気に入らなくても事実は事実として見据えることが肝要」なのでしょう)
- スプーン曲げのトリックが分かってすっきりしました.小学校のときテレビで見て自分で試してみたりして,なんでだろうと思っていたのでよかったです.今思うと,小学校の先生も「超能力がある」みたいなことを言っていろいろやっていたけど,騙されていたんですね...(1年女子)(どういう先生じゃ?? ちなみに逆説的かも知れませんが私は「超能力」はあると思っています.もちろんそれはスプーンを曲げたりするような手品ではなく,例えば「どんなときでも事実を見据え,たとえ死の淵にあったとしても生きているうちは平然と生き続ける」みたいなものです.なかなかできることではありません.これこそ超能力と呼ぶに相応しいと私は思っています)
- とても早口な先生で,初めは頭がくらくらしました.事実を見据えることが辛いときもありますが,しっかりと受けとめていけるようになりたいです(1年女子)(「事実を事実として見据える方策」の一つとして,人間社会では宗教が機能してきた面もあると思っています)
- 本当に面白い講演でした.思い込みや欲得のために人は騙されてしまいがちとのことでしたが,全くその通りだと思いました.欲があるから騙される...この欲から「解脱」したとき,きっと何事にも惑わされず真実のみが見えてくるはず?! ‥‥サイババちょっと信じていたのに...(1年女子)(今日に至るまでサイババを信じていたのはあなたの情報不足でした.でも「過ちは速やかに修正すればよい」のですから,嘆くことなく明日に向って走っていきましょう :-) ところで,あなたの「解脱」ということばの使い方は,仏教的に見て正しい用法です)
- 面白かった.私も毎朝テレビで血液型占いを見たりしていたが,これからはそういうのは見ないようにしようと思った.というよりテレビがないが(1年女子)(君,おもろいなぁ.ナイスなキャラクターです(爆))
- すごく面白かったです.でもハンカチが出てくる手品は,前の方に座っていたため,親指にはまっていた小道具が見えちゃいました(1年女子)(まさに「事実を見据える」典型です (^o^;)
- とても面白く,時間があっという間に過ぎてしまった.オカルトは信じた方が夢があると思うので,害のない「よいインチキ」はこれからも信じようと思う(1年女子)(要は「つきあい方」なわけです)
- 物事を正しく見る目を養わなければならない.でも霊はいると私は考える(1年男子)(鈴木の意見を参照して下さい)
- いつも眠くなるこの時間に,今日は目がパッチリ覚めていた.私は教授の考えに共感できる.日本には先祖崇拝の観念がとても強く,霊とか魂に関する行事(年忌など)も多い.これは人間の「死んでしまったらその人が永遠にいなくなるなど信じたくない」という願いから来ているものであり,○○が今頃天国から見守ってくれるから...などとある程度の心の安らぎは得られると思うが,死者の霊による恐れに悩まされてしまうこともある.これも一種の人間の欲望に基づく騙されだと思った(1年女子)(これもまた鈴木の意見を参照)
- 科学には興味があるが,難しくて専門にはできない.でもやっぱり知りたいと思う.私は騙されやすいと思った.世の中,私みたいな人も多そうだ.でも鬼太郎とか目玉親父とか,見えないところにいて欲しい感じがする.仏教は霊を否定していたと聞いて,ああそうかと思った(1年女子)(これもまたさらに鈴木の意見を参照)
- 事実を突き詰めていく姿勢には本当に敬意を表したい.ただ,騙されること,騙すことが結果的に良い方向に向うこともある(特に子供など)ので,そのことも考えた上でこの講演を役立ててみたい(3年男子)(日本の妖怪話には教育効果が高いものもありますからね)
- 宜保さんが捕まらないのはどうしてなのか(2年男子)(そうですね.どうしてなんでしょう.罪状はやっぱり詐欺罪なんでしょうか)
(この感想文について,ある方から意見が寄せられましたので載せます)
霊がいることは証明されていないという証明はできても、霊は絶対にいないという証明も、霊とはこんなものだという証明もできない以上、嘘をついているという証明ができないので詐欺罪が成立しません。これは論理の問題ですね。(この意見に対しての私の考えを述べます.安齋教授のお話しでは,「宜保さんは事前調査を行なって,相手のことをよく調べた上で〈霊視〉している」ということでした.これが立証されれば詐欺罪になると思うのですがいかがでしょうか.捕まっていないということは,立証されていないのかも知れません.そして,もし立証されていないのであれば,「宜保さんは事前調査を行った」ということの信憑性にまで関わってくるような気もします.個人的には「おそらくやっていただろうな」とは思いますが,これはあくまで推測に過ぎず,推測の段階で非難するのは不当でありましょう.是非,この点をはっきりさせてもらいたいというのが私の希望です)
- 今日は人はなぜ騙されるかを熱弁していただいた.人はどうやら騙されやすいようだ.もしかしたら安齋教授も騙しているのかも...なんて(1年男子)(疑うのは大いに結構.でもその疑問を放置しておいては駄目です.鈴木の意見を参照)
- 仰ったことは全て事実なんだろうと思いましたが,それはそれで悲しい,夢のないことだと思います.ここからどのように発展させるかが自分の使命だと思います(1年男子)(安齋教授は「夢が悪夢にならないように」と警告されているのだと私は理解しています)
- 私は最初から安齋教授が思っていらっしゃるほど非科学的事象を信じている訳ではありません.皆,そうだと思います.テレビで視聴率が高かったり,占いの館が賑わっているのは,“快い騙され感”を味わおうとしているのだと思います.オウムなどのように人命に関われば大問題ですが,そこまで本気になって否定・批判すべきものなのでしょうか? そこまで否定してしまったら,日本や世界に古くから伝わる民俗信仰はどうなるのでしょうか? また,最後に「今,オカルトに浮かれている場合ではないだろう」と仰っていましたが,それは安齋教授にも言えることではないでしょうか.宜保さんの本を10冊読むなら,違う本を1冊でも読んでみてはどうでしょう(2年女子)(ううっ,辛辣...何もそこまで言わなくても...ところで,別に安齋教授は宗教を否定されているわけではありません.教授は科学者として,科学のフリをしたインチキ科学や「超能力」を否定されているのだと思います)
(この感想文について,ある方から意見が寄せられましたので載せます)
つまらない本を10冊も読むよりは、 という意見には、わたしは反対します。つまらないものを、つまらないものだよ、と多くの人に知らせる行為は、つまらない行為ではないからです。
(この「ある方からの意見」に対して,別のある方から意見が寄せられましたので載せます)
この考えかた、正しいようだけど危ないんじゃないでしょうか。つまらないとわかっていてつまらないものを読むのは、読む人の勝手で、それがつまる行為だろうとつまらない行為だろうとどうでもいいことでは。問題は、危ないものをまじめに読むことの有害さにあるのではないかと思いますが。
cf.「とんでも本の世界」(小学館文庫)
- 大変世俗的な内容であり,教授のお話しもとてもテンポが良く,非常に興味深い講演でした.「オカルト」がどこまで学問になりうるかについても興味深く思いました.わずか1時間程度の短いお話しでしたが,“騙す方”のトリックについてはよく理解できたと思います.しかし私はこの講演で,題目でもある“科学する”という内容を理解するまでには残念ながら至りませんでした(これは時間のせいかも知れません).人を“騙す”“騙される”この裏には思い込みや欲得が潜んでいると安齋教授は仰いますが,その心理行動の根底には,社会情勢や人間の社会化過程の中での複雑な問題が存在しているはずではないでしょうか.できるなら私はそのことについて言及してもらいたかったです(プリントでいうなら 3).ですから,私にとって今回の講演は,単に聴講者の世俗的興味を煽り立てただけで終わってしまったという「尻切れトンボ」に過ぎないものでした.残念です(1年女子)(講演で足りなかった分は「本を買って読め」ということなのかも...兎に角,そこまで問題が明確になっているのであれば前進あるのみ!!)
【総評】全面肯定の感想文ばかりかと思っていたら必ずしもそうではなく,安齋教授には大変申し訳無いのですが,正直なところ少し安心しました.1時間半ほどの講演で全ての人が今までの意見を捨てて,ある一つの考えに収斂していくというのはある意味で怖いことだからです.ただし,否定的意見や疑問を抱いた人は,それを放置しておくのではなく,きちんと反駁するなり勉強を続けていくなりする必要があります.これはどんな場合にも当てはまることですので,よく肝に銘じておいて下さい.
それから,安齋教授の仏教理解には少し誤解があるように見受けられましたので,私も専門家の端くれとして,ここでそのことを明確にしておきたいと思います.
まず,「釈尊は霊魂を否定した」というようなことを安齋教授は仰っておりましたし,御著書にもそのように書いていらっしゃいます.しかし,すでに以前の講義で皆さんに説明したように,釈尊は霊魂(インド的にはアートマン)や死後の世界の存在を否定も肯定もしていません.これらの問題は形而上学的なものであり,釈尊の基本的立場は「形而上学的な議論には立ち入らない」でした.なぜならば,形而上学の世界は sa.mskaara の世界だからです.
しかし,場合によってはその sa.mskaara も有効に作用する場合があります.例えば,死後,自分という存在が全くの無になってしまうと考えてしまい,その恐ろしさの余り,今現在きちんと生きることすらできなくなっている人がいるとしましょう.そんなとき仏教では「今現在あなたの責任の取れる範囲の行動の結果によって,死んでも別のいきものになって再生する」と説きます.一方,悪霊の祟りに怯えて,これまた今現在きちんと生きることすらできなくなっている人に対しては,「悪霊なぞ存在しない」と説き,それでも恐怖がなくならないようであれば,その人を恐怖から「解脱」させるため加持祈祷などを行うこともあります.仏教で大切なのはどこまでも「今」なのです.
このように多様な教えを仏教が許容するのは,これもすでに講義で説明したように,仏教の教えは医師の処方箋(方便 upaaya)に他ならないからです.ここで誤解してはならないのは,仏教の教えに「真実と方便」の二つがあるのではなく,「仏教の教えは全て方便(覚りに至るための手段)である」という点です.
ですから,仏教諸派によって霊魂の存在を認める・認めないの差があっても一向に構わないのです.安齋教授はこの点も挙げて疑問視されていたようでしたが,実はもともと仏教とはそういう宗教なのです. 霊があると信じた方が安心できる人は,しっかりと霊の存在を信じて生きればよいし,霊の存在が恐怖となっている人は,そのような悪しき sa.mskaara から「解脱」するよう方策を講じればよいのです.
ただし,現在の仏教諸派がこの点に自覚的であるかどうかは分かりません.そして,もし無自覚であったとすれば,「現在の仏教は釈尊の教えを歪めている」という非難も甘んじて受けなくてはならないでしょう.
私ですか? 私は死んで自分の存在が全くの無になってしまうなどとは到底考えられません.それはまさに気も狂わんばかりの恐怖です.できるだけもう一度人間に生まれ変わって,仏教の勉強を続けていきたいと念願しています.そういう意味では霊の存在もある程度信じていると言えると思います.しかし私にとって霊は恐怖の対象ではありません.例えば「先祖の霊」ですが,先祖の霊が子孫に祟るわけがありません.ご先祖様はいつも子孫の繁栄を願いこそすれ,足を引っ張るようなことはしないでしょう.それから「悪霊」や「地縛霊」の類ですが,そもそも死んだ人間に生きている人間の生死を左右するような力があるとは信じられません.私には死霊よりも生きている人間の悪意やねたみ,それに萩のトンビなどの方がよっぽど怖いです.
それから仏教には「記憶を紡ぎ続けることによる永遠のいのち」という観念もあります.例えば,「釈尊を模倣し,釈尊の教えを説き続ける者がいる限り,釈尊は永遠に現存する」といったような観念です.これも私の好きな考え方の一つです(この話しは6月の国際文化学部フォーラムで行いました).私事で恐縮ですが,かつて,子供を失ったある母親から相談を受けたことがあります.彼女は子供のことを思い出すたびに悲しみの余り家事もこなせず,そのために夫から「もう子供のことは忘れろ」と言われていました.そこで私は「子供のことを忘れる必要はなく,子供さんは常にあなた方と共にある」こと,そして「これから子供と過ごしていく時を,泣き濡れたままで過ごしてはもったいない.これからもどんどん楽しい想い出を作り続けていく方が子供さんにとっても,そしてあなた方夫婦にとっても大事なことなのではないのか」とアドバイスさせてもらいました.幸い,彼女は立ち直ってくれました(もちろんそのためには夫婦や家族の協力が最も大切で,私のアドバイスはそれを引き出すための些細な引き金程度に過ぎませんでしたが).
仏教のみならず宗教は本来,「惑わされることなく今を生きる」ためにあります.これは安齋教授のお考えと本質的には同じ方向を向いていると私は思っています(鈴木隆泰)
suzuki AT ypu.jp