7/19 アンケート13号の評価

アンケート13号(総数 146.講演会参加者は 102)の結果をお知らせします.「自分の意見が載っている,載っていない」「教員のコメントの内容」などは成績評価や回答内容の質には全く関係ありません.

複数の同一回答は,原則的に最初に目についたもののみを採用しました.

原文の一部を修正したものがあります.

男子・女子の区別は氏名に基づく判断です.もし間違っていたら遠慮なく申し出て下さい.

今週は通常の講義の代わりに,安齋育郎立命館大学教授の講演「超能力を科学する ―人はなぜだまされるのか」を聞いて感想文を書いてもらいました.他の授業があって講演会に参加できなかった人は,その旨を伝えてもらえれば出席扱いにします.




【総評】全面肯定の感想文ばかりかと思っていたら必ずしもそうではなく,安齋教授には大変申し訳無いのですが,正直なところ少し安心しました.1時間半ほどの講演で全ての人が今までの意見を捨てて,ある一つの考えに収斂していくというのはある意味で怖いことだからです.ただし,否定的意見や疑問を抱いた人は,それを放置しておくのではなく,きちんと反駁するなり勉強を続けていくなりする必要があります.これはどんな場合にも当てはまることですので,よく肝に銘じておいて下さい.

それから,安齋教授の仏教理解には少し誤解があるように見受けられましたので,私も専門家の端くれとして,ここでそのことを明確にしておきたいと思います.

まず,「釈尊は霊魂を否定した」というようなことを安齋教授は仰っておりましたし,御著書にもそのように書いていらっしゃいます.しかし,すでに以前の講義で皆さんに説明したように,釈尊は霊魂(インド的にはアートマン)や死後の世界の存在を否定も肯定もしていません.これらの問題は形而上学的なものであり,釈尊の基本的立場は「形而上学的な議論には立ち入らない」でした.なぜならば,形而上学の世界は sa.mskaara の世界だからです.

しかし,場合によってはその sa.mskaara も有効に作用する場合があります.例えば,死後,自分という存在が全くの無になってしまうと考えてしまい,その恐ろしさの余り,今現在きちんと生きることすらできなくなっている人がいるとしましょう.そんなとき仏教では「今現在あなたの責任の取れる範囲の行動の結果によって,死んでも別のいきものになって再生する」と説きます.一方,悪霊の祟りに怯えて,これまた今現在きちんと生きることすらできなくなっている人に対しては,「悪霊なぞ存在しない」と説き,それでも恐怖がなくならないようであれば,その人を恐怖から「解脱」させるため加持祈祷などを行うこともあります.仏教で大切なのはどこまでも「」なのです.

このように多様な教えを仏教が許容するのは,これもすでに講義で説明したように,仏教の教えは医師の処方箋(方便 upaaya)に他ならないからです.ここで誤解してはならないのは,仏教の教えに「真実と方便」の二つがあるのではなく,「仏教の教えは全て方便(覚りに至るための手段)である」という点です.

ですから,仏教諸派によって霊魂の存在を認める・認めないの差があっても一向に構わないのです.安齋教授はこの点も挙げて疑問視されていたようでしたが,実はもともと仏教とはそういう宗教なのです. 霊があると信じた方が安心できる人は,しっかりと霊の存在を信じて生きればよいし,霊の存在が恐怖となっている人は,そのような悪しき sa.mskaara から「解脱」するよう方策を講じればよいのです.

ただし,現在の仏教諸派がこの点に自覚的であるかどうかは分かりません.そして,もし無自覚であったとすれば,「現在の仏教は釈尊の教えを歪めている」という非難も甘んじて受けなくてはならないでしょう.

私ですか? 私は死んで自分の存在が全くの無になってしまうなどとは到底考えられません.それはまさに気も狂わんばかりの恐怖です.できるだけもう一度人間に生まれ変わって,仏教の勉強を続けていきたいと念願しています.そういう意味では霊の存在もある程度信じていると言えると思います.しかし私にとって霊は恐怖の対象ではありません.例えば「先祖の霊」ですが,先祖の霊が子孫に祟るわけがありません.ご先祖様はいつも子孫の繁栄を願いこそすれ,足を引っ張るようなことはしないでしょう.それから「悪霊」や「地縛霊」の類ですが,そもそも死んだ人間に生きている人間の生死を左右するような力があるとは信じられません.私には死霊よりも生きている人間の悪意やねたみ,それに萩のトンビなどの方がよっぽど怖いです.

それから仏教には「記憶を紡ぎ続けることによる永遠のいのち」という観念もあります.例えば,「釈尊を模倣し,釈尊の教えを説き続ける者がいる限り,釈尊は永遠に現存する」といったような観念です.これも私の好きな考え方の一つです(この話しは6月の国際文化学部フォーラムで行いました).私事で恐縮ですが,かつて,子供を失ったある母親から相談を受けたことがあります.彼女は子供のことを思い出すたびに悲しみの余り家事もこなせず,そのために夫から「もう子供のことは忘れろ」と言われていました.そこで私は「子供のことを忘れる必要はなく,子供さんは常にあなた方と共にある」こと,そして「これから子供と過ごしていく時を,泣き濡れたままで過ごしてはもったいない.これからもどんどん楽しい想い出を作り続けていく方が子供さんにとっても,そしてあなた方夫婦にとっても大事なことなのではないのか」とアドバイスさせてもらいました.幸い,彼女は立ち直ってくれました(もちろんそのためには夫婦や家族の協力が最も大切で,私のアドバイスはそれを引き出すための些細な引き金程度に過ぎませんでしたが).

仏教のみならず宗教は本来,「惑わされることなくを生きる」ためにあります.これは安齋教授のお考えと本質的には同じ方向を向いていると私は思っています(鈴木隆泰)


アジア文化論 I

アジア文化論研究室


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