仏教とは何か?

奥田竜介くんの解答 + α


仏教は紀元前5世紀ごろ誕生した世界三大宗教の一つで、開祖は釈尊(しゃくそん)という人です。イスラーム、キリスト教と並立して規模の大きさが言われていますが、他の二つとは様々な違いがあり雰囲気を異にしています。例えば仏教には唯一絶対の神はなく、聖典も多数あります。

仏教が誕生した当時のインドは、バラモン教(古典期のヒンドゥー教)により身分制度の下に支配されていました。その制度ではバラモンを最高位に武人、庶民、肉体労働者の4つの階級(ヴァルナ)に分けられていました。

紀元前5世紀頃、インド思想界が激変します。庶民階級が力を持ち始めると、バラモン中心の思想や社会制度に疑問を感じはじめ、バラモンと対立するようになったのです。と同時に、自由思想家と呼ばれる人たちが登場してきます。彼らはバラモン教の柱である輪廻と業を否定します。

輪廻というのは生まれ変わり、死に変わりのことで、全ての生物はこの輪の中にいると考えられていました。人間は死ねば来世でまた生まれ変わるということです。しかし、来世でも同じように人間に生まれ変われるかどうかはわかりません。それを決定するのが業です。「業」とは元来「行い、行為」のことですが、同時に、行為によって生じた影響力のことも表します。現世でよいことをしておけば、その影響力(業)で来世も人間や天上の世界に生まれ変わることができるというわけです。もう一つの柱に、解脱があります。これは先ほどの輪廻の輪から脱して永遠の平安を手に入れるということです。

反バラモンの人たちは虚無論・道徳否定論(輪廻も業もなく,何をやってもよいのだという考え方)や運命論(どんなに努力しても報われないという考え方)などを唱えて、バラモンに対抗しました。

しかし宗教対立というようなものは不毛なものです。もともと信じているもの、否定するものが違うので議論がかみ合うものではありません。このような状況は現代でもあるのではないでしょうか。

そのような対立が続いているなかで釈尊が登場してきました。

釈尊は釈迦族の王子として紀元前5世紀に生まれたといわれています。釈尊はバラモン、反バラモンのどちらの立場をとるというわけではなく、二つの集団から一歩引いた場所から争いを客観的に見ていました。

争いを見ているうちに釈尊は、宗教の役割について考えました。そして安心(アンジン)、つまり心の平安のために宗教はあるはずだと考えるに至ったのです。

ここで、「サンスカーラ」というものについて説明します。これは仏教を知る上で不可欠な概念なのでよく理解して下さい。

サンスカーラとは「好むと好まざるに関わらず、対象を捉えようと対象に向かって無意識に(自分勝手に)働きかけていってしまう力。形成力」のことです。サンスカーラは日常の人間生活を営むためにはある程度不可欠なもので、無明(真理に暗いこと、知らない事がある、ということ)を原動力とするものです。

どういうことかというと、初めて会った人の性格を、外見や服などからあれこれと想像してある程度自分勝手に決めてしまう、ということはありませんか。この場合は、性格を知らないために印象だけで人格を自分勝手に作り上げてしまっているのです。このときサンスカーラが働いているわけです。また、「この形成力によって虚構された世界や事物(形成物)のこと。認識対象となるもの全て(認識された存在、時間)」ということもできます。

サンスカーラは自己理解のとき、他者理解の時、何かを認識しようとする時に必ず働きます。神や死後の世界に限らず、人間の認識作用の根本に働く力なのです。

いわばそれは人間の「主観」「思い込み」と言い換えてもよいでしょう.この「主観や思い込みによって捉えられた世界」と,「ありのままの世界」との間には必ずギャップがあります.このギャップのことを「苦」と呼びます.

さて,バラモン教の人たちは輪廻の存在を想定しています。これはサンスカーラによるものということができます。反バラモンの人たちは輪廻サイクルの存在を否定しています。「輪廻サイクルが存在しない」という状態をサンスカーラして想定しているわけです。どちらもサンスカーラの向かう方向が違っているので議論がかみ合わないのです。

そのような争いを客観的に見ていた釈尊は一つの結論を出します。「彼らは答えのない(形而上学的問題)で争っている。それにより安心が阻害されている。」というのがそれです。そして釈尊は、輪廻サイクルというあるかないか分からないものについて争っている両者とは違う、第三の立場を取ることを選択しました。そしてサンスカーラを抑え,「ありのままに世界を見る」ことに勤めたのです.

その後思索を重ねた釈尊は「輪廻は尽きた。解脱した。」と言って形而上学的な問題、争いへの不介入を宣言します。「輪廻は尽きた」というのは輪廻の輪から外れるという事ではなくて、「輪廻の世界そのものを放棄した」ということです。また「解脱した」ということは輪廻という観念への執着を放棄するという意味で、この二つを釈尊は呼びかけたのではなく、「私は」やめる、放棄すると言ったに過ぎません。このことから三大宗教のほかの二つとは違う特殊な面が覗えます。

先に、仏教には複数の聖典があると言いました。これはどういうことでしょうか。

あなたがリンゴを食べたとして、その味をリンゴを食べたことのない人に「ことば」で伝えるという状況を想定してみて下さい。

あなたはリンゴの味を「甘くて,酸っぱくて,シャキシャキしていて,とても美味しい」と伝えたとしましょう.しかしそれで本当に相手にリンゴの味が伝わるでしょうか? 否です.リンゴを食べたことのない人は,今まで自分が経験した「甘い」「酸っぱい」「シャキシャキしている」「美味しい」という概念を組み合わせてリンゴの味を想像する(これもサンスカーラです!!)ことしかできず,いつまでたっても「本当のリンゴの味」は伝わらないのです.本当のリンゴの味を伝えるには,彼ら/彼女らにリンゴを実際に食べてもらうしかないのです.

それと同様に,サンスカーラを通さずに世界を把握し,涅槃の境地や仏教の真理(=リンゴ)を体得した(=味わった)釈尊ですが,その体験(=リンゴの味)を他の人々に説くことをためらいました.たとえ説いたとしても(=リンゴの味を説明したとしても),サンスカーラに惑わされずに世界を見た経験のない人たち(=リンゴを食べたことのない人たち)には理解されないだろうと考えたのです.

しかし結局釈尊は,「リンゴの味を人に教えることはできない。しかし、りんごを食べてみたい、と思わせることはできるのではないか」と思い直し,説法を始めます。「おいしさ」そのものを教えることはできないわけですが、おいしそうに食べたり、おいしいおいしいといって笑顔をつくったりしてあげれば、もしかしたら「食べてみたい」と思わせることができるかもしれません。釈尊がこうやったかは定かではありませんが、なにか接近させる方法を考えたのでしょう。これが釈尊の「教え」です。対象に向かって接近させるように仕向けるわけです。

もう一つ例を出しましょう。医者が患者を治療する時に、全ての患者に同じ薬を出すわけではありません。症状に合わせて治療をします。例えば、肥満の患者にはあまり食べないようにといいますが、栄養失調で痩せこけた患者にはもっと食べなさいといいます。釈尊の教え=処方箋といえます。

上に挙げた「教え」「処方箋」のことを「方便」と言います.これは人を真理に近づけるための唯一の方法で,決して「便宜的,二次的な手段」などではないのです.

釈尊は説法をしながら旅をしました。各地で様々な悩みを持った人に出会い、救いを求められます。その度に釈尊は一人一人に合った処方箋を出していきます。仏教の出発点は「真理や真実をそのまま伝えることは不可能」だというところです。このような特徴から仏教には確定した教え、戒律が存在しないのです。

釈尊は神ではありませんので、この旅の途中、遺言に有名な「諸行無常」という言葉を残して死にます。この言葉を存在論的に解釈すると「サンスカーラは常に湧き出し、常に続いていく。我々はそれに惑わされ続けていく。惑わされる事なく生きていきなさい」、また時間論的に解釈すると「過去を悔いることなく、未来を憂えず、時間は歩み続ける今のみ」ということです。

釈尊(仏教)の時間の捉え方、時間論について触れておきます。当時のインドにはバラモンの「輪廻」という時間、反バラモンの「人間とは全く関係なしに流れる時間」、という二つの時間論がありました。釈尊はその二つとは別に、時間はその人とともにあるもので、今だけである、未来は永遠に来ないという考え方をしていました。争いに対する立場、そこから導き出した結論、時間に対する考え方。これらの点で釈尊は新しいものを考え出しました。既成のものとは違う、全く新しいものを考え出すというのは難しいものです。釈尊の偉大さが見て取れます。

釈尊以降の仏教に入ります。説法の旅の間、釈尊の周りには多くの弟子達が集まりました。その弟子達が釈尊の死後、彼の教え、つまり処方箋をまとめます。これを「聖典結集」といいます。この聖典結集が,多くの仏典が今日まで伝わるきっかけとなったのです.しかし同時にこの行為は,仏教にとって危険な側面も持ち合わせていました。何が危険なのかというと、1つめに、教義が確定してしまうということが挙げられます。リンゴの木に近づける手段、処方箋となる方便が終焉を迎えてしまうことになるからです。仏教の根本であるので、仏教でなくなってしまう可能性をはらんでいました。2つめに聖典結集への参加者の問題です。まず出家者に限られ、在家者は排除されました。さらに出家者の中でも高位の人間だけに限られ、結局500人程度で行われたため偏りが出てしまったのです。

釈尊の入滅後、出家者の多くは僧院で定住を始めました。部派仏教の時代に入っていきます。一部の出家者は森林などの僧院以外で生活していました。釈尊と同じように遊行に出た人たちもいました。この森林・遊行型の人たちが「大乗仏教」を生み出す母胎となっていきます。

在家者はどうだったのでしょうか。釈尊は旅の途中で仏塔(ストゥーパ)を残していきました。釈尊の記念碑のようなものです。彼らはこれを支えにして釈尊を思い出していました。お墓にあるお塔婆、五重塔などもこれがもとになっています。仏塔は在家者のみならず出家者たちにとっても重要な信仰対象でした.初期大乗仏教が登場する背景には,「単なる仏塔崇拝を乗り越えよう」という意図があったことが分かっています.

さて、大抵の宗教には創唱者がいるものです。創唱者はいつか死んでしまいます。そのあと大体滅んでしまうのですが、キリスト教やイスラームはなぜ継続しているのでしょうか。これらの場合創唱者は預言者でもあり、背後に神をもっていたからです。神は死なないのでその後も信仰の対象が維持されたため、現代まで継続しているわけです。

では仏教はどうでしょう。釈尊は預言者ではないですし、背後に神もいません。むしろ神や輪廻から遠ざかっていました。なぜ継続したのでしょうか。

「仏陀とはなにか」という問いが釈尊がいた頃からありました。リンゴの木に至る道を説く仏陀とは何かであるということです。リンゴの木へ向かう人たちは仏陀だけを見ていただけではありませんで、その先、背後に真理を見ていたのです。ここではリンゴの味のことです。彼らは「真理(に至る道)を説くから仏陀なんだ」というように、釈尊に限らず仏陀を救済者と考えていました。釈尊の残していったストゥーパを記念碑というよりも生きた仏陀そのものだとも考えていました。釈尊(仏陀)の面影、信仰の対象となるものがあったわけです。この「真理を説く者は誰でも仏陀」「仏塔は生きた仏陀そのもの」,これが神を持たない仏教が現代まで継続している理由です。

釈尊入滅後、僧院に定住を始めた出家者の多くはスコラ哲学に終始していました。スコラ哲学というのは西欧中世に生まれた学問です。キリスト教思想とアリストテレスを中心とする哲学をどのように調和的に、または区別して理解するかを中心課題としていました。ここでは「議論ばかりしていた」というように受け止めておけばいいでしょう。

では森林での生活を始めた人たち、遊行を始めた人たちはどうだったのでしょうか。彼らは哲学的なことではなく、もっと生き生きとした言葉を模索しながら生活をしていました。彼らによって仏教の復興運動が起こります。どういうことかというと、処方箋を出し新たな教えを創作するという、釈尊がしていたことを始めたのです。彼らが大乗仏教を生んでいきます。

大乗仏教を提唱したのは法師(ホッシ)と呼ばれる人たちで、大乗経典というものを作ります。「無用なサンスカーラを増大させない」ということを殆ど唯一の条件としています。有名なものとして『般若経』『法華経』『無量寿経』『阿弥陀経』などがあります。

法師は菩薩の自覚を持っていました。釈尊を模倣する人という意味です。菩薩は六波羅蜜という徳目を実践します。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つで、中でも智慧は別格で、「知識」のことではなくて、ものを見る時、サンスカーラを通さずに見ることができる力のことで、他の5つに支えられています。このあたりまで、紀元3世紀頃までが初期大乗とよばれています。

その後6,7世紀ごろまで中期大乗の時代になります。中期大乗の段階では,「全ての人間は如来蔵である(全ての人間は自らの内に如来を秘めている)」という如来蔵・仏性思想など一部を除き,多くはスコラ哲学化してしまいました.

6,7世紀頃になると完全にスコラ哲学化した後期大乗と、体験至上主義の密教とに別れます。密教の本質は「シンボル操作による実際の行為の代替」です。例えば、花を見ることで食事をしたことにしたり、印を結ぶことで修行したことにしたり、マントラ(呪文/真言)を唱えることで仏陀になったことになったりという具合です。花、印、マントラがシンボルであり、それぞれ実際の行為を代替しているわけです。これはあくまで個人的な体験で、瞑想の中でのみ可能なものであり他者と共有できるものではありません。チベット仏教ではこの密教は大乗仏教を学ばなければ学べないことになっています。密教は性的なシンボルも持っているため、密教の仕組みを知らない人にまで開放すると風紀が乱れてしまうためです。

密教はヒンドゥーに取り込まれ、後期大乗は12,3世紀にイスラームの侵入によって滅亡します。ここでイスラームの侵入とスコラ化によって、インド仏教は一度完全に滅んでしまいます。現在の仏教はその後再興したものです。

インド以外には仏教は南伝仏教としてスリランカに伝わり、ここでは5世紀ごろに完成し、その後東南アジアに伝わっていきます。シルクロードを通った北伝仏教は中国に伝わり、その後朝鮮半島を経て日本に伝わります。また,ヒマーラヤを越えてチベットにも伝播しました.

紀元前後、仏教は中国に到達します。当時の中国はチベットと違い儒教や道教などの高次の文化が既に存在していました。高次の文化を持つ地域に新しい文化は入っていきにくいものです。中国でも例に漏れず、外来の思想である仏教は最初拒絶されました。その後根付いていくのですが、これはとてもすごいことだと言えます。

仏教が当初中国に浸透していく上で最大の問題は道徳の問題でした。まず出家をするということは親元を離れるということであり、「孝」に反すると言われました.また,仏陀を崇拝するということは皇帝崇拝を離れることであり、「忠」に反していてけしからんということになったわけです。

程なくして、仏典の翻訳が始まります。最初は空や中道などの仏教独特の概念は、儒教や道教の言葉を使って翻訳されました。格義仏教とよばれます。その後5世紀に鳩摩羅什という中国語、インドト語の両者に堪能な言語の天才が登場します。しかも彼は文学的な素養も持っていました。彼の登場によって中国仏教は華々しく展開していきます。

中国では全ての仏典は歴史的釈尊の所説だとして、教相判釈(教判)が行われました。教判によって「宗」というものが登場してきます。School のようなもので、それぞれが最高だと思う処方箋を選び説いていました。天台宗、華厳宗、禅宗などがそうです。浄土思想の登場も中国仏教からでした。「浄土」という言葉はもともと「国土を浄める」という意味だったのですが、中国ではこれを名詞として捉え、阿弥陀如来の住むところと見なしました.また,インドでは「仏陀を念ずる」ことだった「念仏」を,「仏陀の名前を口で唱える」と読みかえました。これらは,中国を経由して仏教を受容した日本にも大きな影響を与えます。

釈尊から900年あまり経った6世紀頃、日本に仏教が伝来します。百済から欽明天皇へ伝えられたのが最初と言われています。しかし、仏教の本質、中身を知らないままに受け入れてしまったので、氏族の縄張り争いに利用されるなど形だけのもので、平安期まで不遇の時代が続きます。

日本の仏教の祖は聖徳太子です。推古天皇の摂政ではありましたが、蘇我氏に操られていたために現世否定的な人でした。十七条の憲法を制定するなど仏教を奨励しました。

7世紀に入ると、律令体制の下天皇中心の国家体制が確立されます。仏教は常に体制の下に置かれその機能を発揮することができませんでした。鎮護国家への期待から殻に包まれたまま体制に組み込まれていきます。僧・尼の国家による統制、民衆への教化の禁止など仏教の本質を持たないものとして存在していました。

奈良仏教の時代になっても状況は変わらず、体制にどっぷり浸かったものでした。奈良仏教では南都六宗という、仏教を学ぶ機構ができはしましたが、相変わらず民衆の教化はせず、勉強ばかりをしていて、仏教と呼べるものではありませんでした。仏教を学ぶ為の機構ができ、平安仏教成立の土台をつくったところ以外に評価できるところはなく、仏教に関して見るものがほとんどない時代です。

桓武天皇が即位し、平安時代に入ります。南都仏教が律令体制への忠実な奉仕者であり、民衆への教化を不可とし、得度受戒の権限が天皇・国家にあったのに対し、平安仏教は国家に対して主体性を持ち、得度受戒の権限の一部も仏教者にあり、民衆教化・救済の基礎を作りました。

平安期になると二人の巨人が現れます。
一人は最澄という人です。日本天台宗の開祖で還学生(ゲンガクショウ)として唐代中国に渡り、天台教学を持ち帰って密教や禅などを組み合わせた総合仏教の完成を目指します。しかし、留学の期間が短期であったため密教の部分が十分ではなかったので不完全・未完成のまま彼はこの世を去ってしまいます。しかし未完成であったためにその後大いに発展していくことになります。

彼は得度受戒の権限を仏教者に移すことを切に願っていました。その願いは彼の死後一週間後に叶います。これは画期的なことで、その後の仏教の発展に大きな功績となります。

もう一人の巨人は空海です。真言宗の開祖で遣唐使の留学生(ルガクショウ)として、最澄と同じように中国に渡ります。彼の場合は長期滞在が可能だったため最澄とは対照的に密教をじっくりと、時間をかけて学ぶことができました。

彼は語学の天才で、中国人よりも上手に漢文で詩を作ることができるなど文学的な才能も素晴らしい人でした。空海は中国で恵果という中国密教の大御所のところを訪れます。そこで伝法灌頂という,密教を継ぐ時、ただ一人しか受けることのできない儀式を受けます。

帰国後、最澄が密教を教わりに空海のところを訪れます。空海は結縁灌頂という、密教と縁を結ぶ儀式を最澄に授けました。しかし『理趣経』という一冊の典籍を巡って二人の関係は冷えてしまいます。この典籍にはSEXについてのことがつらつらと書いてあり,ことばだけで理解しようとすると危険であることを密教を極めた空海は良く知っていました。危険なものを貸すわけにはいかないということで断り続けていくうちに離反していくけっかになりました。

空海は三密瑜伽で大日如来になれると説き、成仏できるとしましたが、これは実感のない成仏になってしまいます。空海は「仏陀として生きる、つまり成仏した状態で生きるという選択をしました。空海がまとめた密教教理は完成していたために、最澄の天台とは違いその後の発展が殆どありませんでした。

平安期には人はもともと仏陀であるという「本覚思想」(絶対的一元論)、現世を捨てて死後の世界に思いを馳せる「浄土思想」(相対的二元論)、そして「末法思想」(下降史観)が浸透しました。

末法思想は当時の時代背景、藤原摂関政治の行き詰まり、度重なる内乱と飢饉を背景に当時の人々が自分は今「末法」にいると考えた思想です。ちょうどこの頃に僧と死者が関わりをもち始めます。そこら中に転がる死体に向かって経を読んだことが「供養」というものの始まりとなります。民衆の要請という部分も含んでいますが。

本覚思想と浄土思想は後の鎌倉仏教に基礎となっていきます。全ての下地は天台が作った、といわれているほどです。鎌倉仏教は天台の思想を引き継ぐのではなく、乗り越えながら大きく発展していきます。

鎌倉六宗は全て天台の流れを組んでいます。王法(国家権力)からの独立、仏教の社会運動化、個人の救済だけではなく他人を含めた社会全体の幸福、つまり大乗仏教の実践。これらを中心として発展していきます。

浄土思想の法然と親鸞、禅思想の栄西と道元、法華思想の日蓮など、鎌倉仏教は多彩に仏教者を輩出しました。その殆どの人は国家からの弾圧を受けています。

昔の人たちは宗教を主体的に選んできました。現代ではその主体性は喪失されてしまっています。現代でも過去の仏教者に見習うべきところが多々あります。仏教の勉強をしてみて気づくこと、考えさせられることなど考えている時間の半分以上を使うぐらいありました。あなたも勉強してみるといいかもしれませんよ。仏教はなかなかに魅力的ですから。


奥田くん,よくがんばりました (^_^)

(鈴木隆泰)


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