11/26 授業の感想9号と回答
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前回に続き,大乗仏教の説明をしました.「ことばとともに蘇る永遠のブッダ」「『般若経』の空」「『法華経』の一乗」などについてお話ししました.
- 仏教が北に行ったり南に行ったりして、大乗や小乗といったように発展していったのがわかりました。特に大乗は、その土地に合うように処方箋が柔軟に変化するものだから、すでに高い思想があった中国でも、大乗はその思想を否定するものではないから、受け入れられたのだとわかりました。このように変化する大乗だから、困難なヒマラヤ越えにも成功してチベットにも広がったのだと思います。でも、シルクロードはアフガニスタンをから東にも西にも伸びているのにも関わらず、何故、東の中国には行き西の中東やヨーロッパに広まらなかったのでしょうか。柔軟に変化する大乗でも、すでにあったキリスト教やイスラームと共存できなかったのでしょうか。(3年女子)
(仏教ではなく,彼らが「異教・異端」に非寛容だったのです.)
- 俗なる物を含んでも宗教、ということに今更ながら驚かされました。よく考えれば、他の命を犠牲にして食事をすることさえ「俗」です。しかしそれをも取り払ってしまったら、人間という生命体は生きていけません。聖と俗は表裏一体で大乗仏教の中に存在しているのだと気付きました。(2年女子)
(宗教が文化現象の一つである以上,どうしても俗なるものを扱わざるを得ません.なぜならば,宗教という文化は「人間」が担っているからです.)
- だんだんと内容が難しくなってきました…。自分が全部をしっかり理解できていないようなので少し心配です。復習をしながら確実に一回一回理解していきたいと思います。 小乗仏教・キリスト教・大乗仏教の説明の部分では、それらの違いがはっきりわかりました。私は前回と同じく大乗仏教こそ本物であり、何人にも一番やさしく、よい教えを与えてくれるものだと思いました。宗教は人を導くものであるので、やはり一番柔軟性を持つ大乗仏教の考え方を魅力的だと感じます。(2年女子)
(分からないことは遠慮なく質問してください.)
- 宗教における聖と俗について、小乗仏教は俗を放置し、無視していること、しかし大乗仏教には俗があり、祈りや呪文、儀式があることを学んだ。やっぱり人は、苦しいときに、祈ったりして救われる部分があると思うし、俗の部分は私は大切だと思った。(2年女子)
(「俗」を「低俗!!」と切り捨てるような態度には私は反対です.「俗なる人間が,俗の中に生きながらいかに聖に向かうのか」,それが宗教のテーマのはずです.)
- ヒマーラヤでは人間が一瞬にして凍って死んでしまうという話を聞いてすごいと思いました。一瞬で冷凍されるということは解凍すれば生き返ることが出来るのでしょうか。気になりました。(2年女子)
( (^_^; )
- 今回の宗教における聖と俗の話を聞いて、俗を無視する小乗仏教について納得できませんでした。俗が存在するからこそ、聖が存在するのではないかと思ったからです。だから、俗のことを無視しない大乗仏教に好感が持てました。(2年女子)
(おお,良い着眼点だ! その通りです.聖も俗も所詮は相対的な概念であって,絶対的ではありません.もちろん,神や仏は「絶対的な聖」として成立し得ますが,だからと言って「俗は無視してよい」ということにはならないからです.)
- 一番最初の授業で宗教とは何かという質問がありましたが、あの時はさっぱり分からなかったけど少しずつ見えてきた気がします。でもまだまだ分かりません。宗教は本当に深いと思うようになりました。般若経と法華経で、カッサバたちが忘れていたものを新しいものとして再認識させたところにすごさを感じました。(2年女子)
(学問としてきちんと体系立てて扱っているから難しく感じられるのでしょう.本来の宗教は,「そこに飛び込んでいく世界」ですから.)
- 大乗仏教は、俗なるものを取り込み、ユダヤ教やイスラーム教とは違い、俗なるものは人間の文化であるからコミュニティーによって違うとしたこと、そして、その上に大乗仏教が乗ることが出来たということを聞いて、イスラム教や原理主義のように大きな争いが仏教にないのは、仏教が俗の変化に合わせられるからであるということが分かりました。宗教が社会や文化を変えてしまうのではなく、仏教は人間の社会や文化に合わせて変化し、豊かなものにするのではないかと感じました。こうした力が大乗仏教にあるからこそ、ブッダを目指し到達できるのではないでしょうか。(2年女子)
(大乗仏教こそ釈尊の目指していた仏教だと私は確信しています.)
- 宗教は怖いものだと言うイメージがあったけど、この授業が進むにつれてそのような考えは間違っていると感じました。戦争の原因の一つになることはあっても、宗教自体に原因があるわけではなく、純粋に人を救うためのものなのだと思いました。(2年女子)
(宗教そのものが怖いのではなく,それを口実にして他人を傷つけることのある人間が怖いのです.)
- 大乗仏教について分かってきました。そこで疑問に思ったのですが、(1)大乗仏教と小乗仏教は対立した位置関係で説明されていますが、同時期にあったわけではないと勝手に思っていましたが、それは正しいですか? (2)それと『般若経』
若般経などのグループは全部でいくつぐらいあったのですか?(2年女子)
((1) いいえ,同時期にありました.大乗仏教の提唱者は,「いわゆる小乗」の人たちと共存していたのです.伝統教団の中に興った経典制作運動(処方箋の再発行運動)が大乗仏教です.
(2) ごめんなさい.正確には分かりません.初期のメジャーなものだけでも数十はあります.)
- 「空」の意味としては人間は生まれてきて“欲”というものはもってはいけないということですか。(2年女子)
(違います.その欲が,リンゴに向う方向にあるのか,リンゴから離れる方向にあるのかが問われます.たとえばブッダを目指して修行しようという欲は奨励されます.要は「欲」の定義に関わります.)
- 仏教が日本に伝わったのは、『日本書紀』では552年だといわれています。しかし、某先生の講義で、本当は418年だった、という説が出てきました。そう考えてみると、今までの説よりも100年以上早まるわけなんですが、先生はどう思われますか?(3年女子)
(「日本をどう捉えるか」「仏教伝来という現象をどうとらえるか」によって,年代は変化し得ます.いわば「歴史は事実ではなく解釈である」と言い換えてもいいでしょう.大事なことは,その解釈がいかに学問的に正当であるか(=他者を納得させる論理性を持ちうるか)という点にあります.一応,仏教の専門家の端くれとして意見を言わせていただければ,仏教伝来と三宝伝来とをリンクさせるべきではありません.「仏教伝来は三宝伝来でなくてはならない」というのは,三宝の本質を知らないからこそ言えるのだと思います.)
- 如来蔵・仏性思想はブッダ思想とどう違いますか?(3年男子)
(如来蔵・仏性思想は,ブッダを衆生の一人一人の内に取り込んだ「内在仏思想」です.)
- 「俗」というものがどういうものなのかよく分かりません。イメージだと堕落した、あまりよくないもの、というものが強かったので大乗仏教の祈りや呪文、儀式が俗、という繋がりがはっきり結びつきませんでした。(2年女子)
(そうではありません.でも,私の説明が悪かったかも知れません.
まず,厳密に言ってしまえば,何が聖で何が俗かは宗教ごと,研究者ごとに違います.ですが,ここでは余りギチギチにやらず,緩やかに考えておくことにしましょう.
俗は功利主義的なもの,人間の日常的欲求・欲望を満足させる方向にあるもの,聖は非日常的欲求を満足させる方向にあるもので,しばしば俗と対立します.仏教に即して言えば,生前や死後の幸せを願ったり,厄災の除去を願ったりするのが俗,覚りを目指すことが聖です.小乗は往々にして聖中心の宗教だったわけですが,人が「頭で考えなくても身体で願ってしまうもの」として,どうしても俗なる欲求は無視できません.そして,宗教を担うのは,聖も俗も併せ持った人間なのです.)
- 前々回に、もし私が当時の人間だったら、アショーカ王が文字伝承を始めた時、新しい処方箋が出せるようになったり、個人を離れて思想・教え・法が存在できるなど利点はあったが、その処方箋や思想がブッタの元を離れ、一人歩きしてしまうのではないか・・・・と思っていましたが、今回、基本をもう一度人に戻す作業、すなわち説くという作業を重視したという事を学び、大乗仏教がいかにブッタの教えを忠実にそして真剣に受け止めていたかが分かりました。基本に戻りながら、新しい処方箋を出す考え方というのは、言葉や手段を固着することなく基礎を固着する(つまりリンゴを目指す事)ことができる教えであるように感じました。そして言葉や手段を固着しない大乗仏教だからこそ、柔軟性があり日本や中国に受け入れられたのだと納得しました。(2年女子)
(それは重畳 :-) )
- 私は、宗教には「俗」的な要素は最初からない、というふうに考えていた。しかし、それがないのではなく見せていないということが分かった。信仰において、神聖な部分と俗的な部分とは常に共存している。しかし、宗教で、それを全面に見せていくか、自由にするか、放置するかさまざまである。やはりそこには、それぞれの宗教の考えとするところがあるのだろう。そこをもっと知りたくなった。(2年女子)
(「文化としての宗教」の面白さが分かってきたようですね (^^) )
- 大乗仏教徒は、小乗仏教のようにアラカンどまりでなく全員が菩薩としてリンゴに向って進んでいくというのが印象的でした。小乗仏教の考え方は、「まだ足りない」というようにマイナスなものであるように感じましたが、大乗仏教的に考えるとどんなことも前向きにとらえられると思いました。物事の考え方は人によってさまざまですが、大乗仏教的に考えることができれば自分のこれからの人生にプラスになるように感じました。(2年女子)
(そうそう (^^) )
- 授業を受けるたびに不思議な気持ちになります。宗教って、身近なようで近寄りがたいような、当たり前のことを言っているようで、なかなかその通りには実行できないような・・・。私は特に信仰している宗教はありませんが、仏教の考え方は好きです。(2年女子)
(「当たり前のことが実行できない自分」に気づかせてくれるのが宗教です.)
- 大乗仏教徒は皆菩薩であるという話をきいて、やっぱり先週に引き続き、私は大乗仏教の考え方が好きだなぁと思いました。大乗仏教のお祈りの風景や儀式に使う道具など、実際の絵や写真などを見てみたいなと思いました。日本の仏具とは違っているのですか? (2年女子)
(インドでは仏教が滅んでしまったので,チベット仏教と比較すると,やはり日本の仏具と似ています.というより,どちらもインドの伝統を受け継いでいるのです.)
- どんどんいろんな言葉が出てきて、理解するのが難しくなってきています。「教えを説く人」=「仏陀をよみがえらせる人」で良いのでしょうか??(2年女子)
(その通りです :-) )
- 大乗仏教の誕生は、例えば私たちのような一般の人も再度ブッダに近付けるようになったのだから本当に素晴らしい事だと思った。「ブッダはことばと共によみがえる」というところが、人は誰でも普段ことばを使って生活しているのだから、人々はよりブッダを身近に感じられたのではないかと思った。ブッダは最初、体験をことばにすることで人々はどうしてもサンスカーラを発動してしまうといって悩んでいたが、彼がことばにすることを決めた時点で、このように教えが受け継がれていくことを望んでいたのではないかと感じた。(2年女子)
(仏教は,始源に「ブッダ」という人を抱えています.そしてその「人」が「体験」を「ことば」に転写したところから仏教が始まりました.真理は常に「人のことば」を通して顕現される,というのが仏教の構造です.)
- サンガに対しては規定したが、一般人に対しては放置するという小乗仏教の概念。これは、ヒンドゥー社会にまかせておけばいいという考え方からだが なぜ任せようとしたのかがよく理解できなかった。(2年女子)
(出家者にとっては,「自分たちの修行こそが大切」だったからです.)
- 「神聖なもの、聖性を有するものがあって、それを信仰する人がいて、その信仰を含む広い意味での文化、それが宗教である」という言葉がありました。初回でもちらっとその話が出ましたが、宗教=文化でもあるんだな、なるほど、そうなのかもしれないなと思いました。(2年女子)
(まだ「そうなのかもしれない」という段階ですか? (^^; )
- 「bodhisattva」は大乗仏教では「覚った人、ブッダをよみがえらせる人」という意味を持つ、というところで、仏教に「神」はいるのだろうか、という疑問がわいた。ブッダは「神」の領域に入るくらいすごいことをして、今でも多くの人の崇拝をうけているけれど、やはり「神」の存在が明確なヒンドゥー教やキリスト教とは違う気がする。やはり、ブッダ以外の存在でも処方箋を出しうるということだからだろう。でも、そうやって皆が試行錯誤しながら「リンゴ」を目指して生きていく、ということを、ブッダも望んでいたのではないだろうか。質問ですが、『般若経』のテーマはよくわかりましたが、『法華経』のテーマが良くわかりませんでした。(2年女子)
(『法華経』のテーマは「一乗 ekayaana」(ブッダに至る道は一つだけ,の意)です.釈尊の教えは元来,全ての人を健康にするため,全ての人にリンゴを食べさせるために説かれました.説かれる教え・処方箋が異なるのは,相手の症状や状態に応じて変えたためであって,目指すところは同じです.しかし仏滅後,出家者たちはリンゴを食べることを断念しアラカン止まりとなりました.また,それを批判的に超克しようとした大乗仏教は,アラカン止まりの仏教を「小乗」と蔑称しました.
そのような状況で登場したのが『法華経』です.「全ての人はリンゴ(=ブッダになること)を目指す菩薩である.アラカン止まりになってはいけない.また,それを小乗と蔑称するのも間違っている.ブッダの説く教えは,その説き方は様々であったとしても,全ては人をリンゴに向かわせるためのものなのである.小乗と対立しない大乗,全ての人を載せる大きな乗り物,それこそが仏教の本来の姿である.それは一乗である」というのが『法華経』のテーマです.)
- 大乗仏教では処方箋の一つだと考えられている祈りや儀式、呪文は小乗仏教では切り捨てられているというのが、大乗仏教は小乗仏教より仏教らしいと思いました。リンゴを食べるためには過程を固定しない、という仏陀の教えを引き継いでいるように見えます。 カミソリはダメだが、電気カミソリは刃の部分が直接肌に当たっていないから使用できる、という議論がイスラーム教やユダヤ教で起こっていますが、大切なのはその問題そのものより、それによってリンゴが食べられるようになるのかならないのか、だと思います。仏教だったら処方箋は千差万別で応用がきくけれど、あまりに固定されていると日常生活に支障がでるし、そうまでして自分は幸せになれるのか、と疑問を感じます。自分の事情・個性によって処方箋が選べるのは大乗仏教の持つ器の広さの一つだと思いました。 (2年女子)
(私も大乗仏教が好きです (^^) )
- 今回、宗教における聖と俗についての部分が今ひとつわからなかったような気がします。神聖なものに対する人々の信仰は俗なのでしょうか
なんですよね?「俗」とは世俗、民衆のことでしょうか。ということは小乗仏教は民衆の声を無視し、逆に大乗仏教は世俗に対しても祈りや、儀式という形で民衆に何らかの「処置」をしているということでしょうか。私は聖がどのようなものであって俗がどのようなものなのかよくわかりません。むしろ私たちは誰もが「俗」なのではないかと思ってしまいます。(2年男子)
(言葉遣いに注意.
俗なる私たちが聖なるところに向かいゆく・向かいゆけるところに,宗教の一つの本質があります.聖と俗に関しては,上の方で回答していますのでそちらをご覧下さい.)
- 『般若経』や『法華経』は名前だけしか聞いたことがなく、その内容を初めて知った。今回の講義はサンスカーラや空、三宝など今までの講義で出てきたものを復習できた。大乗仏教のように今日は基本に返る講義だったと思う。そして宗教における聖と俗の説明でイスラームがコミュニティーの周りまでイスラーム化して行くわけが分かってとてもすっきりした。(2年女子)
(「A motion after a long while」みたいな感じですか(爆) 失礼いたしました m(_ _)m )
- 今日の講義でさらに仏教への理解が深まり嬉しく思います。もともとは大乗の教えであったのに、小乗へと促され、心ある人々の活躍により再び大乗への教えに還っているのですね。そして先生自身も、その活動をしている一人のように思います。(3年女子)
(Rev. Suzuki をよろしく :-) )
- 般若経は「空」すなわちサンスカーラの抑制を説いたわけで、結局のところ根本のところでの回帰に他ならないものです。仮に釈尊の入滅直後にこの般若経をつくったとしても、恐らく今日まで残るようなものにはならなかったのではないでしょうか?言い換えれば、マハーカッサパによる結集、ブッダ目指さず阿羅漢に留まった小乗仏教といった動きなどの本来の姿から離れつつあるときに原点回帰を訴えるものであったからこそ、その業績は大きかったのだと思います。
法華経については「一乗」で、教えを説いた瞬間に如来は甦ると説き、認識による世界構成を訴えたわけです。この講義のテーマはサンスカーラの理解ですが、私が勝手に定めたこの講義の裏テーマは認識と世界の構築です。法華経はまさにこの裏テーマそのものです。要は人に認識されることで初めてその人の世界のなかに存在することができるわけです、逆に言うなら、認識されないものは存在していないと同義である、つまり事実として存在するものでも、その人の主観に入り込めなければその存在はないわけです。あえて「教えを説いた瞬間に如来は甦る(甦るを強調)」と説いたのも、前述のように薄れつつあることへの警鐘のようで見事だと感心しました。すべての人から消えない限り、教えを説くものがいなくならない限りブッダはその存在を永遠とする、以前の授業で出た「永遠のブッダ」というフレーズが見事にはまるものだと思いました。(2年男子)
(いやはや,グレイトな感想に圧倒されました.あっぱれ,あっぱれ.)
- テクストが人の記憶を通してのみ伝わるあり方と比べて、文字化することは新たな処方箋を必要とするたびにそれを生産することができる。確かにその通りだと思いました。人の記憶を離れて、りんごの木に向かわせるための無限の可能性を取り戻した大乗仏教の姿を見ることができたように思います。一方で、大乗仏教に対して小乗仏教・上座部仏教と呼ばれるものの性格もより明確に理解することができました。アショーカ王により変化を見せた仏教に対して、カッサパ以来の仏教観を重んじ続けたのが小乗・上座だったのですね。これまでの講義を振り返ると、すべての人に悟りの道を示し続ける大乗仏教の立場が、仏教の原点により近いのだと思います。一方で、カッサパたちはタブーを守ることによって無限の処方箋を生み出す仏教の可能性を限定したと考えられるものの、その教えを元にして大乗仏教が再生したと言えると思うので、彼らの功績に認める部分は確かにあるのではないかともいえる気がしました。
話が逸れるのですが、最近、井上靖の『天平の甍(いらか)』と言う小説を読みました。遣唐使とともに唐に往き、日本のよりよい仏法の発展を求めた留学僧の話です。日本の仏教観と今の講義の内容とでは違いもあるでしょうが、僧が唐にて写した膨大な経典を命がけで日本に運ぼうとするさまなどは、仏教の教えが文字化されたことの意味を感じさせられました。また、ある僧が唐の大地や、そこに暮らす人々(物乞いなども含めて)を見て、「仏教は俺たちが写してばかりいる本の中にばかりあるのではなく、こんな大地や人々すべてを包んでいるものだと思うな」という意味のことを言ったのが大変印象的でした。本を読んで、こうした要素のすべてがつながっていて、仏教ということなのだろうなと、ぼんやりと考えました。(2年男子)
(テクストも文字や記憶のままでは伝承手段に過ぎません.それを蘇らせる「人」がどこまでも必要です.仏教とはもとは「仏道」と言いました.「ブッダに向かって歩む生き方,ブッダとともに歩む生き方」そのものが仏教なのです.)
- 今回の講義では、大乗仏教が「もう一度原点に戻る」ことでブッダを再構成するという点に共感しました。「初心忘るべからず」ということばもあります。私たちの生活そのものも、常に生産と再生産を繰り返すことで成り立っている面もあると思います。アラカン止まりの小乗仏教は、ブッダを再構成することが出来ません。小乗の教えは一部の人だけのものです。一般の人々(在家者)は無視されてしまっています。だからこそ小乗なのです。逆に大乗仏教は「もう一度原点に戻ってブッダを目指す」、「リンゴに向かう」という仏教本来の教えに立ち返り、その上でそれぞれに合った処方箋を出します。だからこそ、大乗経典の量は膨大にあるのです。良い処方箋を出すことでブッダはよみがえります。小乗は教えを硬直化してしまっています。大乗のような「永遠のブッダ」には成り得ないと言えます。ことばにすることで私たちもブッダをよみがえらせることが出来る。そしてブッダへと向かう。このような基本的な点に戻ることは非常に大切であると思います。
少し違うかもしれませんが、勉強に於いても「基本を大切にする」ということは、まさに「勉強の基本」であると思います。スポーツも同じです。一番、核となる基本事項を理解していないと砂場に塔を建てるようなもの(つまり不安定なままでいつの日か塔は崩れてしまう)になってしまいます。それに、一番核となるところが分かったら勉強もスポーツもおもしろくなります。新しいことを習っても、どんどん吸収して自分のものとすることが出来ます。私も仏教が好きになりました。
大乗仏教のもう一つの特徴は「聖なるものと俗なるもの」を固定しない、ということです。これは、重要な点だと思います。俗なるものは人間文化の一つです。それは、大切なものです。全ての人間文化を肯定し、大切にしなければなりません。しかし、自分の生活文化を絶対に変えない。むしろ周りを変えて、一つのコミュニティーを作ってしまおうとする。これではお互いが窮屈になってしまいます。「多文化共生」という点から考えると、これからの時代に於いて考えていかなければならない問題の一つになってくると思います。ただし、多文化共生という美しいことばに惑わされてはならないとも思います。「多文化共生を絶対に認めない」という人(あるいは文化)とも共生していかなければなりません。非常に厳しいと思います。しかし、それでも一人一人が仲良く暮らしていける世界を作らなければならないと思います。その点でも、教えをマニュアル化せずにそれぞれに合った処方箋を出す大乗仏教は、ますます大事になってくると実感しました。(2年男子)
(おおー,先生は嬉しいぞ!! (;o;) )
【総評】この講義の「裏テーマ」に言及し,それと『法華経』がリンクしていることを鋭く見抜く方がいたり,文字や記憶が仏教なのではなく,聖俗合わせた生活文化が仏教であることをきちんと理解してくれている方がいたりと,本当に喜ばしい限りです.フェイスマークも連発しておきましょう (^^) (^-^) (^ー^) (^o^) \(^0^)/ (鈴木隆泰 :-) )
suzuki AT ypu.jp