10/15 授業の感想3号と回答
感想3号(総数 69)の結果をお知らせします.「自分の意見が載っている,載っていない」「教員のコメントの内容」などは成績評価や感想の質には全く関係ありません.ただし「感想の内容」は評価対象となっています.
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原文の一部を修正したものがあります.
男子・女子の区別は氏名に基づく判断です.もし間違っていたら遠慮なく申し出て下さい.
今回からサンスカーラの説明に入りました.この講義の軸となる概念なので,しっかり学んでいって下さい.
それから,講義中に説明したキアヌ・リーヴス出演の映画は「リトル・ブッダ」でした.
- 今日はいよいよサンスカーラについて学びました。サンスカーラの例で、ストーカーの例が挙げられましたが、「過剰な愛情が問題というよりも、対象になる人の、真実の姿と自分の作り上げた虚構の gap を受け入れられず、相手を消そうとするんだな、なるほど!!」と思いました。これがわかれば、たいていのことは受け入れられるようになるのではないでしょうか。が、授業終了後に、「これもあれもサンスカーラが働いているからだね」という投げやり(?)な言葉をちらほらと聞きました。自分ではうまく説明できませんが、これは、少し解釈を間違ってしまっているのでは…? (2年女子)
(順を追って説明します. まず,「これもあれもサンスカーラが働いている」という部分は正しいです.諸行無常の世界に生きている限り,サンスカーラは常に発動し続けるからです. 問題なのは,“投げやり”という部分です.「どうせサンスカーラが働いているんだから,真実は分からないよ」と投げやりになることは,「バカの壁」ならぬ「サンスカーラの壁」とも呼べるマズイ状態です.「サンスカーラが働いてダメダメな自分がどう生きていくか」,それこそ問われなければなりません.)
- ほとんどの人間が虚構の自分を見ているのだと思いました。私も、現像した写真を見て、こんなの自分ではないと思ったりするけど、そこに写っているのは自分であることは間違いないのに、それを認めることができない、認めたくないと思うときが沢山あります。作り上げた自分A´は理想の自分でもあるのですよね?例えば、もっと人に対して親切にできる自分というのをA´として、そのためにその理想に近づきたいと思うことは、自己を受け入れてないということになるのですか。 (2年女子)
(今現在,人に対して親切にできない真実の自分を A とし,もっと人に対して親切にできる理想の自分を A' とするとき,A' を目指すということは必然的に,現在の自分である A を否定して,超克していくことになります.そして A' に到達したとき,その A' はもはや A' ではなく,その時の真実の自分 A となります.
問題が生じるのは,A' を A とする努力をしなかったり,もともと絶対実現不可能なものを A' に設定したりする場合なのです.)
- 人は知らないうちに、自分で、真実でない人や物事を作り出しているのだと感じました。サンスカーラが宗教の争いに深く関わってるときいて、宗教戦争は私たちからものすごくかけ離れたものではなく、サンスカーラから考えていくと、かなり近いところにあると感じました。(2年女子)
(この機会に,自分のこととして考えていくといいと思います.)
- 自己を絶対肯定することができれば、どのような状況下にあっても自分というものが揺らぐことはないんですね。相対肯定で生きている私は常に揺らいでいます。講義の話をいつも自分と当てはめて考えてみるのですが、なぜ時に不安になるのかが解った気がします。私たちはサンスカーラばかりに囲まれて生きているんですね。確かに常に、あの人は生きているんだろうかとか、考えていたらやっていけません。「たかをくくる」生き方は人間が自然に身に付けた、一番楽に生きるための知恵なのかもしれません。だけどそれによって、他人との間では争いや、食い違いなんてものが生まれ、自分に対しては迷いや恐れ、葛藤が生まれます。でも、他人のことも自分のことも、全てを理解するのは難しいと思います。まずは自分を受け入れることから始まるのでしょうか。 (3年女子)
(自己を受け入れることは,出発点でもありゴールでもあります. まず「自分は自分自身を本当に受け入れていない」ということに気づく必要があります.「相対肯定で生きている」と認めているように,あなたはこの点に気づいていますね. そこから「自己を見つめる,自己と向い合う作業」が始まるわけですが,これがなかなかどうして,思うように(サンスカーラのように)は行きません.何度も何度も「自分ってダメダメだなぁ」と気づかされます. 本当のゴールはもっと先にあります.でも進んでいけば必ず,誰でも着けるんですよ.)
- 今回の授業で、諸行無常の正しい意味が分かりました。私は今までそれを、人がいつか死んだり季節が移りかわるように、物事が変化することをいうのだと思っていました。しかし実際は物事の変化ではなく、物事のとらえかたがいつも変化するもの、ということでした。物事を、見たいように見ずに、そのままを受け入れてしまえばギャップも生まれず、苦もないという考えはすごいと思いました。しかし普通は、それを知って頭で分かっても、嫌いな現実を受け入れるのは難しいです。でも普段の生活の中で、嫌なことがあって「まあ、しょうがないか」とあきらめることはあります。あきらめることと、諸行無常でありのままを認めることは、同じことなのかなと思いました。 (3年女子)
(ありのままを認めることができ,心が平穏でいられるなら,諸行無常だろうが何だろうが,全く問題ありません.安心(←「あんじん」と読みます)こそ仏教の,そして宗教の求めるものだからです.)
- 苦行している時のシッダールタ青年の姿はまるで年老いた老人のようでした。苦行のまま死んで行くのが良いと言われていたようだけれど、私はそれが良いことだとは全然思いません。熱力や真実の言葉の力が溜まったところでそれ自体に意味はあるのでしょうか。それらのエネルギーを発散させてこそ何かが生まれてくるのだと思います。エネルギーの発散こそ人間にしかできない人間らしい生き方であると考えています。 今まで私たちは虚構ばかりを見て生活していたのだということを知って、真実は何なのかわからなくなりました。そもそも真実を知ることは必要なことなのでしょうか…。また新たな疑問がうまれました。授業を受けるたびに何かがわかっていくような、それと同時にわからなくなっていくような不思議な感じがします。 (2年女子)
(一つ上の回答にも示しましたが,「安心」があるならば,真実・虚妄云々と言う必要はありません. ただし,「より揺らぎのない安心」は,真実を知ろうと歩む中で生まれてくることもたしかです. 結論を急がず,まずはこの授業にお付き合い下さい.)
- 私達の世の中は、本当に自分達の都合がいいようにだけ考えたサンスカーラだらけの世の中だと思いました。シッダールタは降魔成道により世界をサンスカーラを通さないで見ることができるようになり、世界で初めて世界の真の姿を見た人だとおっしゃっていましたが、サンスカーラを通さないで見た世界の姿とは一体どのようなものだったのですか。やはり汚くて嫌なことだらけの世の中だったのでしょうか。誰にも今まで見えていなかった、また見ようとしていなかった世界の真の姿を当時たった一人で受け止めた釈尊の心の強さには本当に驚くしかありません。(2年女子)
(下線部:仏教の核心に迫る質問です.サンスカーラに対する正しい理解ができれば自ずと答えは見えてくるはずなのですが,現時点できちんと分かることは難しいかも知れません. 次回以降の授業で扱います.)
- 今まで意識して考えたことがなかったのですが、今日の授業を受けて自分がサンスカーラを通して世界を見ていたことに気づきました。もしこの授業を受けていなかったら自分はずっと虚構を真実だと思い込んで生きていたと思います。またシッダールタはすごい人だと思いました。自己の絶対肯定によって世界の真実の姿を見たのだから。それは決して容易なことではないと思います。 (2年女子)
(「では一体“真実”とは何か?」 それは次回以降の授業のテーマの一つでもあります.)
- サンスカーラによってストーカー行為まで説明することが出来るのには圧巻でした。納得する部分も多かったです。確かに私たちは自分以外の人をこうあってほしいというような目で見ているところはあると思います。それが打ち砕かれるとショックを受けてしまいます。ありのままの自分というのはそんなに簡単に見つけられるものではないのだなと感じました。おそらく真実の世界を見ることが出来ていない自分は真実の自分にも出会えていないのだなと思いました。 (2年女子)
(「真実の自分」に出逢いたいとは思いませんか? 世界中が敵であっても,自分くらい自分の味方でありたいと願います.自分自身に裏切られるほどつらいことはないかも知れませんから.)
- サンスカーラによって虚構の自分を作ったり、「たかをくくる」ことをしないと毎日不安や心配で日常生活を送ることは難しいと思います。あまりに不安や心配ばかりを抱えてしまったら、精神的に疾患を抱えてしまうことになりそうな気もします。しかし、虚構の自分や日常生活に気づいてしまったときに、自信を失くしたりするのだと思いました。(1)釈尊はサンスカーラを抑制・制御をした、と説明を受けましたが具体的にどのようなことをしたのですか? (2)また、仏陀というふうに自他共に認められた、ということですが他というのはどのような人たちですか?仏陀の信者のような人たちですか?それともA教やB教というように他の真理を追い求めていた人たちのことですか? (3)もうひとつ、平家物語の冒頭の「諸行無常の響きあり」とはどういうことを表しているのですか? (2年女子)
(番号順に説明します.
(1) ひたすら自分と向い合うことによって,真実の自分 A とサンスカーラの産物 A' とを近づけていきました.往々にして A を受け入れることは苦痛を伴います.そのために人は安きに流れ,本当は何の解決にもならないのに,砂漠に水を撒くように渇愛を起こし,サンスカーラを発動させて A' を虚構します.A' はいわばぬるま湯です.ぬくぬくとしていますが,長く浸かっていると風邪をひいてしまいます.シッダールタはこの風邪を治そうとしたのです.
(2) 仏教徒はもちろんですが,基本的には非仏教徒も彼のことをブッダであると認めました.もちろん,例外はありますが.
(3) 「栄枯盛衰」の意味です.「諸行無常」の意味の一側面に過ぎません.詳しくは拙論の「「諸行無常」再考,『山口県立大学国際文化学部紀要』#10, 2004, pp. 21-31)をご覧下さい.図書館にあるはずですが,もしなければ研究室を訪ねて下さい.)
- 親しい友人から、「あなただったら、こうゆう風に言ってくれると思ったのに…」などと言われて、いったい私のなにを知っているのだと、腹立たしく思ったことがある。これもサンスカーラなのだろうか。彼女の中にある私という存在と、ホンモノ(?)の私との gap に、彼女だけでなく、私まで苛立ちを覚えました。(2年女子)
(それも,仏教でいう「一切皆苦」の表れの一つです.この「苦」は,普通の意味で「苦しい」などというものではなく,真実の姿 A とサンスカーラによって虚構された A' との間に gap があって,それを埋めることができず,「自分の思い通りにならない」ことを意味します.)
- 本当の自分を認めたくないとき、サンスカーラを通してうその自分を作り出し酔いしれるというのは麻薬などのドラッグに似ているなと思いました。辛いことから逃げ出したい、自分を直視できなくなったときに甘い誘惑に誘われてしまう、楽なほうに逃げてしまうということが、人の頭のなかでもおこなわれているんだなと思いました。ところで、シッダールタは出家したとき何歳だったのですか?(2年女子)
(29 歳の時,というのが一般的な伝承です.6年間の修行を経て,35歳の時に成道してブッダとなりました.)
- 今まで何度も授業ででてきた「サンスカーラ」の謎がやっと解けました。私も自分や他人に対してサンスカーラによってイメージを勝手に作り上げてしまうことがよくあります。「映画を観に行ったけど、期待していたほどおもしろくなかった」とか、「芸能人の〜に会ったけど、思っていたより背が低かった」とかいうのもサンスカーラによるものなのでしょうか?釈尊のように真実のすがたを見ることができれば、サンスカーラによる人間関係のすれ違はなくなるのではないでしょうか。(2年女子)
(下線部:サンスカーラの世界はまだまだ奥深いですぞ.)
- 釈尊が見たものに少しでも近づいてみたいですが、「サンスカーラ」が出て来ると、引き離される感じがします。ちょっとやそっと学んだぐらいで理解しようなんて甘いのは解っていますが、でも来週もまた頑張ろうと思います。 (2年女子)
(お互い頑張りましょう :-) )
- よく考えてみると、サンスカーラは私たちの生活の様々な面で見られるように思いました。先生がおっしゃったように、自分もサンスカーラによって作られた自分しか友達に見せていないのかも・・・私もサンスカーラによって作られた友達しか見ていないのかもしれないと考えさせられました。サンスカーラが自分の存在というものの絶対肯定を邪魔するものだということに納得してしまいましたが、全くサンスカーラを持たないこともなかなか難しいものだと思います。それを成し得たのがシッダールタなのですね。私も真実の自分を、ありのまま受け入れられることができるようになりたいものです。(2年女子)
(サンスカーラを発動しちゃだめだとわかっていても止められない,そこが仏教のテーマです.)
- サンスカーラを制御することに成功してシッダールタは仏陀になったんですよね。そう聞くとサンスカーラは悪いもののように聞こえますが、決してそうではないと思うのですが。 (3年女子)
(そうではありません.サンスカーラは正しく制御されねばなりません.そうでないとをサンスカーラ悪用され,無用の不安をかき立てられることになります.「無くす」のではなく「正しく制御する」という点がポイントです.制御できないサンスカーラは噴きだし続けます.「諸行無常」なのですから.)
- サンスカーラは私の意識の中に常に存在するものだと気付かされました。人を思い自分を思い、その他の様々なことを思うとき、「何でこうなるんだろう」「うまくいかないもんだな」というふうに、悩む(苦しむ)ことばっかりです。サンスカーラから開放されるのは簡単ではないと感じます。やはり釈尊は偉大な人ですね。今回の講義で強く思ったことなのですが、仏教は私たちに道を示すというより、私たちが普段持っている悩みや苦しみに真摯に向き合っている宗教ではないでしょうか。そういうところがとても好きです。(2年男子)
(その通りです.仏教は,大上段に構えて「この教えについてこーい」とやるタイプの宗教ではありません.)
- 自分の見たくないものをないものとしてでっち上げることは簡単だが、いざその現実、事実を目の当たりにすると人は間違いなくそのギャップに苦しむ。果たしてどちらが楽に生きられるのだろう。真実を受け入れてそれなりに人生を歩むのと、嫌なところはサンスカーラで虚構とし何事も都合の良いように考え、後に痛い目にあうのとは。 (2年女子)
(「目をつぶったまま生きる」ことを決意するなら,それも一つの生き方だと思います.どちらの世界を選ぶのか,人間の決断とは全て,実は世界を選ぶ決断なのです.例えば,A という行動をした場合,その人は「A をした世界」を選び,そのかわりに「A をしなかった世界」を捨て去ったことになります.)
- 先生の授業でサンスカーラについて聞くのも3回目なので、今日はなかなか理解できたかな?と思います。諸行無常⇒諸々のサンスカーラは同じ状態に無い というのは文面ではわかっていましたが、その意味がやっと少しわかりました。それぞれの人やそれぞれの宗教などにはたらくサンスカーラは全て違っていて同じサンスカーラは無いということですよね?でも、かんがえれば考えるほどサンスカーラは複雑な気がしてまた、こんがらがってきます。。。(4年女子)
(どんなに私がサンスカーラについて説明しても,皆さんは私の説明を,皆さんが発するサンスカーラを通して各自理解するしかありません.どうですか? 少し分かりやすくなりましたか? )
- 私は、人がサンスカーラを発動する理由は自分を守る手段のひとつとしてではないかと考える。この考えは逃げかもしれないけれど、逃げ道も少しは作っておかないと追い詰められて壊れてしまう気がする。だから、実際にそれを行ったシッダールタは本当にすごいと思う。人間は知らないもの、わからないことに対して知っている限りの知識で補ったり、予想したりしてそれに対する恐怖や不安な気持ちをやわらげ、自己を納得させている部分があると思うから、サンスカーラを通さずに物事を見るというのは並大抵のことではできないと思う。(2年女子)
(下線部:だからこそ彼は「ブッダ」なのです.)
- サンスカーラについて、とても良く分かりました。私達は日頃サンスカーラを通して物事を見ているけど、シッダールタのようにサンスカーラを抑制できれば、人にむかついたり、腹を立てたりしないだろうな・・・と思いました。それって、すごく魅力的だと思います。でも、真実を知る事は、良いことばかりでは決してありません。サンスカーラを通して見る事により逆に幸せに感じる事もあるのではないかと思いました。(この授業のあと“サンスカーラ”がブームになりましたよ・・・)(2年女子)
(下線部:そこが大乗仏教の極意の部分です.
それから,サンスカーラをブームに終わらせず,末永く見ていって欲しいと思います.)
- サンスカーラの発動によって、ものごとをありのままみないということはわかりました。ではどうしたらサンスカーラが発動しないのかというところがよくわかりませんでした。いったいガウタマは、どうやって絶対肯定の真理に結び付けたのか、具体的なところがわかりませんでした。ただ、ありのままみようとした、で、それはみえてくるものなのでしょうか。(3年女子)
(サンスカーラは渇愛(癒しても癒しても湧いてくる,際限のない欲望)を原動力とします.渇愛を対治することによって,サンスカーラをコントロールできます.)
- 今回のお話はとても身近に考えられることがたくさんあり、あーこんなにも知らないうちサンスカーラが発動していたのかと感じました。私にもサンスカーラが発動していたなんてびっくりです!先生の例で挙げたストーカーのお話はとてもわかりやすかったです。ありがとうございます。シッダールタは、自他共に認められた唯一の人だったのですね。今度からは、彼のことを「釈迦」と呼ばないように気をつけます。「釈尊」でいいのですよね。 (2年女子)
(そうです.「釈尊」と呼ぶようにしましょう.)
- 「サンスカーラ」や仏教における「苦」についての説明は分かりやすく理解できました。私はよく「本当の自分はどういう人間か」ということを考えます。もちろん、その答えは出ていません。きっと、自分の都合よく理解することが多いからだと思います。だから、ありのままに見て、ありのままを受け入れたシッダールタはすごいと心から思いました。また、「縁起」について「無明→サンスカーラ→…→苦」との説明がありましたが、現在ある「縁起物」とは何か関係があるのでしょうか。(2年女子)
(「縁起」は本来,苦の生起する由来・プロセスを突き止め,苦をなくして安心(あんじん)を得るための教説でした.それが転じて,神社仏閣の由来や沿革を「縁起」と言ったり,幸・不幸の由来・前兆という意味で「縁起がよい,悪い」「縁起物」などとも言われるようになりました.)
- 自分の真実の姿を100%完璧に見ることなんて、可能なのだろうか。サンスカーラによって虚構の作用がはたらくならば、「これが自分だ」と思っているものに、虚構された部分が数%でも混じってしまう可能性は高い。また、何をもって「真の姿」といえるのか。そうすると、疑問なのは「釈尊は何を根拠に真実の自分を、あるいは真実の世界を見たと言ったのか」ということである。ありのままに見る、ということは、自分のなかにある感情や思考にとらわれてはいけない。しかも物事の一面だけでなく、すべての角度からみてみなくてはいけない。そんなこと、実際には不可能だろう。あ、でも不可能なことをやってしまったからすごいのか・・・。物事をありのままに受け入れることは苦しい。そして、「ありのままの自分」を見られたくないと思えば外見も中身も繕ったり変えようとしたりする。でも、本当は「ありのままの自分」を他人にも受け入れて欲しいと思っているものだ。人ってそういうものだと思う。(2年女子)
(だからこそ,インチキではないホンモノの宗教が必要なんです.)
- 降魔の意味がよくわかりました。なんかこの文字を見ると悪魔を降伏させるのではなくて悪魔が降りてくるという意味かと思ってしまい初めは混乱していました。(2年女子)
(ストレートな(ベタな (^^;)感想をありがとう.「悪魔が来りて笛を吹く」なんていう小説もありましたしね.)
- 先生の絵を使った説明がわかりやすくてよかったです!テレビの芸能人に対して、あの人はこんな人だって思ってしまっているのもサンスカーラなんですよね。サンスカーラを発動させずに世界をみるとどのように見えるのかなと思いました。でもサンスカーラを発動させないことは簡単なことではなく、私にはきっとできないと思います。(2年女子)
(多分みなさんもよく知っている,ちょっとコミカルな風味もあるアイドル芸能人と飛行機に乗り合わせたことがあります.態度でかかったですよー.)
- 自分自身を含め、人を見るときには、何かしらのイメージを持って見ている。自分が認識するAさんを、A´さんにつくり変えて(補って)しまっている。自分を認識するときにもこの作用は起きる。自分はできるはずだと思い込み、できない自分に失望して自殺するというケースはまさに先生が説明された通りなのだろうと思った。サンスカーラとは怖いものだと最初は思ったが、この思い込みの作用が働かなければ人は生きていけないことも知った。家が燃えているかもしれないと常に考えていたのでは、家から離れられないし、他のことも全てが心配で何もできなくなるだろう。(2年女子)
(サンスカーラといかにつき合うかが大乗仏教のテーマです.)
- 日常にある身近な例を挙げての講義はとてもわかりやすく、ある意味でサンスカーラが人間にとって必要不可欠であるが、それに捉われすぎてはいけない、ということが理解しやすい説明でした。サンスカーラについては多くの人が自分自身のことに当てはめて考えることが出来るはずだと思います。そうして各々が仏教文化を自分中で消化していくようになるといいなと感じました。(3年女子)
(下線部:仏教の極意です.)
- 私の日々の生活はまさに諸行無常である。それは特に、雑誌やテレビを見ている時に更にひどくなっている気がする。女性雑誌の広告に、よく美容整形やダイエットをして異性にもてる様になった、周囲に優しくしてもらえるようになった、というものがあるが、それは自己存在の絶対肯定ではなく相対肯定である。また、それは本当の自分Aでなく、嘘の自分A´であるのではないかと思った。また、嘘の自分A´が、お金さえあれば現実になってしまう現代が良いことなのか悪いことなのかわからなくなった。(2年女子)
(本当はそのままの「自分」(A)なのに,様々な形容句をつけて,例えば「異性にもてる自分」「成績のよい自分」「なになにができる自分」という風にたくさんの A', A'', A''' などを際限なく作っていく,それが諸行無常ということの意味です.無常ですから,A', A'', A''' は長続きしません.一方,そのままの本当の自分(A)には何の形容句もついていません.それが空(くう)ということなのです.)
- 今日の授業で、なんとなくサンスカーラを自分なりにつかめたような気がしました。サンスカーラを抑制して人を見ると、人を認めることができるなと実感しました。極力サンスカーラを抑制して人の真実の姿を認めるように努力をすることが大切なのだと思いました。その日は、友達とサンスカーラを会話の中で多用して話しました。お互いに真実の姿を見せ合いました。(2年女子)
(それを「世界の共有」と言います.)
- 今回はサンスカーラについてよく分かりました。個人差はあるが、誰にでも、自分を勝手に補っている部分があるように思えます。シッダールタ
シッダールダは真実との差に苦しみましたが、虚構であることに気付かない場合の虚構はサンスカーラといえるのでしょうか。(4年男子)
(えーと,質問の内容がよく分からないのですが,通常は意識しない限り,自分がサンスカーラを発動して世界把握を行っているとは気づきません.それともサンスカーラが「形成作用,虚構作用」なのか,それとも「形成物,虚構物」なのかという質問でしょうか.どちらもサンスカーラです.後者はサンスクリタと呼んだ方が厳密ですが,別にサンスカーラ,サンスクリタのどちらでも構いません.サンスクリタは「有為(うい)」と訳されることばです.)
- 先生の授業では言葉が分かりやすく説明されていると思います。授業後はみんなサンスカーラという言葉を日常的に使っていました。サンスカーラばかり考えると人間はあまえてしまってダメなんだろうかと思いました。(2年女子)
(最初の授業でお話しましたが,人間はダメダメです.だからホンモノの宗教が必要なのです.)
- 真実の姿を受け入れることは大変なことだと思います。私も人と接する時、相手の表面しか見ずに、勝手に相手の像を作り上げてしまっています。サンスカーラは遠い存在のようで、私たちと密接に関係していると感じました。ましてや、自己存在のこととなると、もっと大変なことだと思います。この難題に正面からぶつかっていった釈尊が、多くの人から慕われたのも納得できると思いました。(2年男子)
(もちろんそういう面もありますが,釈尊が慕われたのは,彼が難題に正面からぶつかったからだけではありません.彼は悩んでいる人や苦しんでいる人に対して,一人一人にあった適切な処方箋を出してくれたからです.詳しくはこれから講義で説明していきます.)
- サンスカーラを発動させることなく見たありのままの世界はいったいどんな世界なのか。確かにありのままの自分を受け入れることはなによりの平安であると思う。けれどその境地に立った人は自覚しているかどうかは疑問だ…。けど事のなりゆきを静かに受け入れ、ありのままの世界に身を委ねているのだと思う。釈尊が訴えたいのは誰がどの境地に達した云々ではなく、誰もがその境地を踏むことができ、誰もが同じフィールドに立っているってことじゃないかとふと思いました。(2年女子)
(下線部:わたしたちはその世界をサンスカーラを発動して構想してみるしか術がありません.)
- 釈尊が自己存在の絶対肯定という考えに辿り着いたのは、どのような状況下に置かれても他と比較することなく自らを肯定し、ただ自分自身の問題について悩み抜いたからであると学んだ。そのような捉え方には、すべての人々が追い求めている内面的な部分の思想が隠されているのかもしれないと感じた。自分が見たくないものを見えないようにすることがサンスカーラであり、普通の人間であれば日常生活において誰でもサンスカーラを通して物事を見ている。しかし、真実を知り、自分が考えていたものとの間にあるgapにうろたえる。そのサンスカーラが自己存在の絶対肯定を邪魔するものであると気付いた釈尊は、見たくはない真実の自分と向き合い、そのgap(=苦)と対峙しようとした人物であるのだと理解出来た。私達はサンスカーラを通してすべての物事を捉え、自分の思った通りの世界を作り上げているが、ありのままの自己を受け入れることが出来たからこそ、彼はサンスカーラを通さずに物事を見つめることが出来たのであろうと感じる。(2年男子)
(いや,お見事 (^^) )
- ようやくサンスカーラがその姿を現したわけですが、サンスカーラが虚構を意味するものだとはまったく予想もつきませんでした。確かに形而上のものである宗教的真理(仏教以外の宗教における)は、違う宗教の信者からすればただの寝言にしかすぎず、かといって逆に自分の宗教の真理を相手に押しつけても同じことにしかならないですね。結局のところ、政治的思惑を抜きにして宗教的対立が完全な原因となった場合の戦争は、譲歩による解決はなく、どちらかが敗れるまで続くしかないように思います。その点でサンスカーラの存在をを把握し、サンスカーラにより得た主観にのみ頼らず、一歩引いた目線から物事を捉えられる仏教はいい意味で大人な宗教といった印象を受けました。当然ほかの宗教が悪いとは微塵も思いませんが。
さて今回は認識に関するお話が聞けた(と思っている)ので、とても面白かったです。少しずれますが、私が興味を持って自分で読んでいた漢文の胡蝶の夢の話や、量子力学のシュレーディンガーの猫の話に通じるものがあった気がします。世界の真実の姿を見ることのできない私たちが、自己存在の絶対的肯定をすることはできないのは当然と思います。シュレーディンガーの猫のように事象(世界の真実の姿)を観測
して認識しようにも、胡蝶の夢のように自己の存在すら完全には肯定できない。これではただの堂々巡りになります。私には永久にたどり着けないような気がします。覚者たる釈尊がサンスカーラを排し、世界の真実の姿見たこと、そして自己の絶対肯定を成し遂げたことがいかに凄いことがよくわかりました。
注)シュレーディンガーの猫・・・本来は原子崩壊についての量子力学の実験に基づくもの。本来の実験には猫を入れる必要はまったくない。シュレーディンガーが猫を入れたのは、奥さんと喧嘩をして(確か理由は奥さんが自分より飼い猫を大事にしていたからとか)、頭にきたので飼い猫を装置に組み込んだかららしい。猫を密閉空間にいれ、毒ガス発生装置を仕掛ける。スイッチは原子の崩壊により入れられ、n分後に猫の状態を観察する。これは原子崩壊の実験であると共に、事象X{この場合ねこの状態(死亡・瀕死・生存)}は実際に認識することによって初めて収束する、ということがこの実験のもう一つの意義とされる。(2年男子)
(量子力学の言う「観測者が観測対象に影響を及ぼす」行為は,従来の物理学では決して記述することのできない真実でした.しかしそれはやはり「客観性,再現性」に支えられた科学的真理であり,さらに理性的な哲学的真理,霊的な宗教的真理と相まって,トータルな世界認識に結びつくとよいと思います.)
- 諸行無常のきちんとした意味を初めて知った。今まで学校などでは「全てのものは移り変わる」という意味だと教わってきたので、諸行無常は自分の外側にあるもののように感じていた。今まで抱いていた諸行無常のイメージは速い流れの川だった。自分はその中にある石で流されたり、取り残されたりしているのだと思っていた。しかし、どんどん湧き出す、諸々のサンスカーラによってつくられた世界を自分は見ているのだと知って、諸行無常は自分の中のことなのだと感じた。私は高校の時、絵を描いていたが先生がいつも「作品はずっと残るのだから、明日、死んでも後悔しないぐらいに今日は描いて帰りなさい。」と言っていた。確かに人間はいつ死ぬか分からない。明日、死んでるかもしれないなと頭では分かっていたが、本気でそう思ってはいなかった。だから良い作品ができなかったのかもしれない。こんなことを思い出して自分の中にあるサンスカーラを確認した。(2年女子)
(圧巻な感想です.あっぱれ,あっぱれ (^^) )
- 自己存在の絶対肯定、難しそうですね。どうしても自分の存在を他の何かと比較してみてしまいがちです。ほかの人のことも全てを知っているわけではないから、自分で勝手に補ってギャップに戸惑ってしまうというのはありがちなことかもしれません。逆にそのギャップが良いように見えると、恋に落ちたりしてしまうのかもしれません、などと勝手に思ったりしました。でも、相手の真実を見ようとする姿勢はなんにしろ大事なんだなあと感じました。
ところで、キリスト教など他の宗教はどうなのでしょうか。宗教について詳しい知識がある分けではないのですが、キリスト教のような宗教の多くは神と人間の比較から成り立っているような気がします。絶対的な神とそれに劣ってしまう人間。劣ってしまうがゆえに神様を神として崇めるという部分も大きいのではないのかと思います。またそれゆえに自らの不完全さを補ってくれるものとして神が必要なのではないでしょうか。仏教は、自らの不完全さを自らで補う努力をしつつ認めていくことこそが大切である、と説いているのでしょうか。 (2年女子)
(下線部:うーん,これも仏教に関する本質的な問いです.先に答えを言ってしまえば,「そう説くときもあるし,そう説かないこともある」ということになります.「それじゃ答えになっていないじゃん :-( 」と思うかも知れませんが,本当にこれが答えなのです.なぜこれが答えなのかを,この講義を通じて理解していって欲しいと思います.)
- 今回の講義では、サンスカーラ、諸行無常という大事な点を学ぶことが出来たと思います。サンスカーラによって自己を形成する。自分を作っていくことが成長であるように感じていましたが、実際に出来上がるのは虚構による自分です。同時に、他人を見るときも自分の見たいように(自分の都合の良いように)見ています。自分を見る時も他人を見る時も、結局「自分のモノの見方、考え方」というサンスカーラに影響されてしまう。これでは、対立が起こっても不思議ではありません。「宗教について考える」ということは、「自分について考える」ということでもあると思います。釈尊は、まさに命懸けで真実にたどり着いたのですが、それは「世界をより良いものにしよう」という崇高な目的からたどり着いたのではありません。「サンスカーラによって作られた虚構の自分はもうたくさんだ。真実の自分をつかみ取りたい」。このような、ある意味においてはまず自分というものが最優先され、しかし結果的に世界をより良くしているという意味でも仏教は非常に人間的な宗教であると思います。加えて、もし釈尊が「世界をより良くする」ために苦行をしたのであれば、釈尊になれなかったのではないか、とも思います。結局のところ、人間の「生きる」という行為そのものが宗教であるとも言えます。生活と宗教を切り離し、科学万能主義に陥ったところから逆に宗教対立が起こってしまう。そのようにも指摘出来るのではないでしょうか。(2年男子)
(科学・哲学・宗教は,人間が世界を把握するときの三本柱です.これらが相まって,本当に実りある世界把握(=人間理解,自己理解を含む)ができます.)
【総評】ほとんどの皆さんは今まで,「諸行無常」を「全てのものは移り変わる」という意味であると,サンスカーラを発動して理解していました.ことばを通した理解は,そこにサンスカーラが介在しているという点で,どこまでいっても不完全性を免れません.でも,不完全だからといって「どうせ分からないんだからいいや」という,バカの壁ならぬサンスカーラの壁を設定してはいけません.だって,あなたの「諸行無常」に関する理解は,確実に真実に近付いたでしょう? 大事なことは真実に到達するより,そこに向って近付いていくことなんです.(鈴木隆泰)
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