10/8 授業の感想2号と回答
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今回は仏教が生まれた背景についてお話ししました.
- 去年受けている分、わかりやすく、授業のスピードにも着いていきやすかったと思います。去年は聞き逃したと思われる口頭での説明をノートにとることが出来ましたし、シッダールタの生い立ちについては去年以上の詳細が説明された気がします。今年初めて受講される方には、板書されたことだけでなく、先生が口頭で説明されることを出来る限りノートにとることをオススメしたいですね。それが期末レポートに大きく活かせるものになることは間違いありません!(3年女子)
(そうそう (^^) リピーターの方も大歓迎です.)
- シッダールタ青年の実存的悩み、とても共感しました。自分を受け入れることって簡単なことではないと思います。自分に当てはめて考えてみれば、私は太った自分は嫌いで痩せたいといつも思っていますが、でも太ってしまったとしてもそれも自分なんですよね。「それは本当の自分じゃない」なんて思っているうちは自分を受け入れられていないし、ずっと苦しいと思います。理想にしがみついているというか...。私もありのままの自分を愛してあげたいですね。そうすればもっと楽に、というか柔軟に、ゆとりを持って生きられえるのになあと思います。(3年女子)
(愛したいのに,なかなか愛せない. どうするか?? それが仏教のテーマです.)
- カピラヴァストゥのシャーキャ族の話では、それぞれの登場人物を少し物語的に説明してくださったのでとても分かりやすかったし、面白かったです。シッダールタが悩んでいた、人間にとって当然のものである老・病・死を嫌うことは自分自身を嫌うことにもなってしまうということ…。私自身この3つを嫌なもの、関わりたくないものと考えていたので、授業を受けたあと何が何だかわからないような不思議な気持ちになりました。先生がおっしゃていたことはちゃんと理解しているのに、そのことが自分に当てはまると思うとよくわからなくなってしまったようです。今回の授業だけではこのもやもやした感じは消えることがなかったけれど、これから自分が引っかかっていることが少しでも解決されたり、新たな考え方を見つけられることができればいいと思っています。宗教を今まで勉強したことのない私には今の段階では難しいようです。最後に質問ですが、輪廻の現れる状態であるといっていたカーストが今ひとつ
今一よくわからなかったので説明をお願いします。(2年女子)
(下線部:「頭で理解」することと,それを「体で理解」すること・「体得」することとは違うのです.
カースト(ジャーティ)はヒンドゥー文化を根底から支える,世襲の排他的職業集団のことです.浄・不浄の観念を基調に数千のカーストがあり,カースト毎に実行すべき様々な義務 dharma があります.詳しくはアジア文化論 I でお話ししています.)
- シッダールタもその息子ラーフラも出家したということは、カピラヴァストゥ王家の血筋はそこで絶えてしまったのですか? (2年女子)
(いえ,シッダールタには従兄弟や異母弟がいました.ただ,彼らの多くもその後出家しました.いずれにせよ,シャーキャ族はコーサラ国によって滅ぼされました.)
- ガウタマ・シッダールタの息子はラーフラだけだったのですか?生存率が低いために男の子は2〜3人生んでおくと言われていましたが。(2年女子)
(ラーフラだけでした.ヒンドゥー・バラモン的発想ではたしかにもっともうけておきたいところなのでしょうが,一刻も早い出家を願うシッダールタには,もうそれ以上の遅延は受け入れがたかったのです.)
- 宗教の指導者になる人は、結婚したらいけないのだとことが多いのかと思っていました。だから、シッダールタが結婚し子供までいると聞いて驚きました。でもそれは私の勝手な思い込みで、よく考えたらガーンディーにも奥さんがいたし、お坊さんにも家庭を持っている人が多いことを思い出しました。シッダールタの場合は、恋愛欲を満たすために結婚したのではなく、子孫を残すためだけの目的で結婚したのですか。(2年女子)
(結婚は親が決めます.シッダールタとヤショーダラーの結婚の場合も,息子の出家を何とか思いとどまらせようとして,父王のシュッドーダナが決めたものです.夫婦生活の快楽とそれに伴う子孫の誕生,そして妻や子孫への愛情が「足枷」となって,シッダールタが出家を思いとどまるのではないかと考えたからです.)
- シッダールタが実存的悩みを抱え、自分を愛せなくなったのは、老い、病、死を悩んでしまうからだということでしたが、このような悩みを抱えてしまうということは、何か大きな原因があったのでは?と思ってしまいました。王子という庶民よりは恵まれた地位にありながらこうした悩みを抱えてしまったシッダールタに何があったのか、と考えてしまいました。逆に王子という恵まれた環境にあったからなのでしょうか。(2年女子)
(サンスカーラと対峙する姿勢が,すでに彼の悩みの中にあったからだと思います.やはり彼はなるべくしてブッダになっていったのかも知れません.南無,南無.)
- いくつか疑問があったのですがヒンドゥー・バラモン文化のところで「よいことをすればよく生まれかわる」とあったんですが具体的によいこととはどんなことですか?(2年男子)
(所属カーストの義務 dharma を果たす,司祭や神々を供養する,聖なる水で沐浴する,などです.)
- 老いるのも、病気になるのも、死ぬのも全て人間が避けられないもの。老いた自分も、病気になった自分も、死んだ後の自分も全て自分の姿なのだ―。当たり前のことなのに、今まで考えたこともなかった。当たり前のようにこの先、50年、60年は生きるだろうと思っていたし、そう考える一方で、自分が年をとって腰がまがったり、白髪だらけの頭になったりする姿なんて想像したことがなかった。とてもハッとさせられました。ガウタマ・シッダルータがどのようにこの悩みを解決したのか、とても興味深いです。(2年女子)
(下線部:こういうのもサンスカーラのなせるわざです.)
- 今日の授業で Gautama Siddhartha が王様の子供であったことに意外さを感じました。宗教は貧困で生活の苦しい人のためにあるようなものと考えていたからです。私はどの宗教を信じているというわけではないですが、やはり何かを深く信仰していたら他のものを間違っていると言いたくなる気持ちは分かるような気がします。その中で、それを脱した Gautama Siddhartha はすごいと感心しました。(2年女子)
(「サンスカーラへの執著を離れる」ことで脱したのです.)
- ガウタマ・シッダールタは後にはブッダとなる偉大な人物ですが、若かりし頃にはこんなにも深いことに悩み苦しんだのだということは知りませんでした。老、病、死という人間にとって当然なものをそのまま受け入れるのは、確かに私たちにとって難しいものであると思います。それを受け入れがたい自分に疑問を持つことから彼の人生も大きく変わったのだと思うと、様々なことについて考え悩むことも大切なことであると感じました。宗教は人間と切っても切れない関係にあると思うので、これからの授業でもいろいろなことを吸収したいと思います。(2年女子)
(♪みーんな悩んで大きくなったー,って,この歌知ってます? )
- 老いていく自分や死んでいく自分も本当の自分であるはずなのに、私たちは日ごろ考えないようにしている、という言葉にドキッとさせられました。本当の自分のことを私たちは愛せていないのかな、と少し考えてしまいました。ところで先生に質問なのですが、イスラムのことを先生はイスラームとおっしゃいますよね?その言い方のほうが正しいのですか?(2年女子)
(そうです.「イスラーム」が正しい発音です.)
- シッダールタの、自分の真実の姿を見つめ、自分自身を好きになれない、受け入れられないという姿が、本当に真剣に物事を考え生きている人の姿なのかもしれないなあと思いました。「老、病、死」という人間にとって当然のことをやはり私達はいつも気づかないようにしている気がします。その事と真剣に向き合い考えたシッダールタという人は本当に強い人だと思います。宗教にはこのような歴史があり、人が考えに考え抜いた思想があってずっと伝えられているものだと感じました。私はただ漠然と自分は仏教徒だと思っていましたが、真剣に仏教の教えを学んだら今より一皮も二皮も剥ける気がします。(2年女子)
(剥けまくってください.)
- 人間は確かに老いる自分、病気の自分、死ぬ自分を嫌だ、受け入れたくないと思っていると思いました。女性の多くの人が顔のしわだとかを隠そうとするのはまさにそれではないでしょうか。今回の授業を受けていて、改めて自分のありのままの姿を考えてしまいました。(2年女子)
(「真実の自己の探求」こそ,シッダールタの修行の出発点でもあったのです.)
- 人間は、自分で自分を100%愛することが出来ず、老いていく自分、病気の自分、死ぬ自分を受け入れることが出来ない。しかし、世の中では老いていく自分、病気の自分、死ぬ自分を受け入れて生きている人たちはいるのではないのかと思う。それは、(A)ガウダマ・シッダールタの教えが世の中にあるためだかからだろうか?それとも、(B)人間自身がそういったことを受け入れていく能力があるためだからだろうか?また、(C)その他の理由によるためなのだろうかと疑問である。(2年女子)
(B です.人にはその能力があります.自己を受け入れ安心して生きていけるなら,別段仏教徒である必要がない,というのが仏教の特徴でもあります.)
- 今日一番印象に残ったことは、シッダールタ
シッタールダが初めて東で老人を見て汚いと思い、南で病人を見て醜いと思い、西で死体を見て嫌だと重い、北で沙門に出逢い出家を決意したという話しだ。私達は物心つくときからたいていは何らかの形で老人も病人も死体も、本やテレビあるいは実際に見たことがあると思う。しかも、道徳教育をある程度うけているので、汚いとか醜いとか、思っても口に出すのは悪い気がしたり、思っても,こんな事思っちゃいけないなどと思うかもしれない。けれど、素直にシッダールタシッタールダはその感情をストレートに表しているのを知り、しかも軽蔑などの感情ではなく、驚きも入っているのではないかと思うし、なんだか悪い意味ではなく新鮮な気がした。(2年女子)
(彼はストレートに思いを出し,さらにそれを「いずれ老いゆく自分,病みゆく自分,死にゆく自分」と自分に適用した上で,その事実を受け入れることを拒否する自分と対峙していくのです.)
- ガウタマ・シッダールタの生い立ちや出家の理由など今まで知らなかったことだらけで、新鮮な授業でした。特にシッダールタの抱えた悩み(見た事実を自分に置き換える発見自体が凄いと思いました)のお話しには惹かれるものがありました。そして、自分の真実の姿を見つめ、愛すことは他をみつめ、愛することに繋がるのでは、と考えました。シッダールタがどのような結論を見出すのか、今後の授業が楽しみです。(4年男子)
(「人はサンスカーラに基づいて他者と世界を共有していく」という考えに立つ仏教にとって,他者の利益を図ることがすなわち自己の利益に繋がることになるのです.今後の授業で詳しく扱っていきますから,楽しみにしていて下さい.)
- 神様は存在も非存在も証明できない、という言葉が印象に残りました。私は当たり前のように「神様はいない」と思っていたのですが、それを証明することはできません。だから「神様はいる」という考えの人を批判したり、反対することはできないのですが、「自分の考えが正しい」ことの証明を、相手を批判することにより証明しようとしてきた気がします。「自分の宗教は正しいのか、間違いなのか」という論争から抜け出たシッダールタはその論争より既に一歩前に出ていると思いました。 (2年女子)
(シッダールタの至った「サンスカーラに基づく世界把握,世界構築」をじっくり見ていってください.)
- ガウタマ・シッダールタが沙門になるまえに3方で死人、老人、病人を見て感じた感想が以外でした。仏教の道に進もうとする人間も死を恐れる事もあるんですね。ガウタマ・シッダールタは子孫を残すために結婚をしてから出家しましたが、現在のインドにもヒンドゥーバラモン的価値観がのこっていますか?また、ガウタマ・シッダールタのように子孫を残してから出家する人はいますか?(2年女子)
(ばっちり残っています.出家も子孫を残してからするように推奨されています.)
- いよいよ本格的にブッダ
ブッタの話に入ってきたので、面白いです。僕は手塚治虫先生の『ブッダブッタ』を持っているので、講義を聞くたびに漫画のシーンが浮かんできてしまいます。僕自身は講義の中の話にも入り込みやすくていいと思っているのですが、こういった先入観なしに講義を受けたほうがよいでしょうか?(2年男子)
(先入観もサンスカーラの一つですから,この講義を通じて見直してもらっていけばよいので,大丈夫です.ただし,手塚先生の『ブッダ』は,若干,ヒンドゥー・バラモン的理解に寄りすぎているように感じています.)
- 私は普段、自分にもいつかは訪れるであろう“老・病・死”について考えません。それは、“老・病・死”について考えるのを避けたいというよりはむしろ、『楽』が多いからかもしれません。仏教の基本教理である『一切皆苦』とは明らかに違うなと思いました。 また、ガウタマ・シッダールタは沙門と婆羅門どちらにも属しませんでしたが、初めはどちらも彼にとって理解しがたかったのだろうと思っていました。しかし、その対立構造の外に出るということは、どちらの宗教も理解ししていないと出来ない事だと気づきました。理解した上で自分と違うと気づき、第三者の立場に立つ事は、何事においても説得力があり、人を引きつけると思います。(2年女子)
(仏教で言う「苦」とは,「楽しい」の反対概念でもなければ,「苦しい」ことでもありません.「サンスカーラによって構築された世界と,真実の世界とのギャップに基づく,自分の思い通りにならなさ」なのです.)
- 老いる自分、病む自分、死ぬ自分という真実の自己の姿を受け入れられない原因と、バラモン・シャモンがそれぞれ自分の宗教が正しく、他は間違っているという考えを持ち、宗教対立が起こったその原因が一緒であり、それはサンスカーラである、というところで今回の授業は終わった。私の祖母は今80代後半で足が不自由になり、自由に移動することもできず、その他様々な体調不良を抱え、私が実家に帰るたびにそういった3つの自分の姿を受け入れられないということを度が過ぎるほどなげいており、人はそういった自己の姿をいざとなれば受け入れられないのだろうと祖母を見ていて思う。その原因とは何か、サンスカーラとは何か、次回の講義では学んでいきたい。(2年女子)
(サンスカーラは次回の授業のみならず,この講義を貫く一貫したテーマなので,繰り返し,繰り返し説明していきます.お婆さまのケースにも当然適用できますよ.)
- 「真理」とは、この世にただ一つだけあるものだと思っていました。しかし、今回の先生の話を聞いて、検証不可能な「形而上」のことだと納得できました。また、シッダールタが生まれた時に仙人がやってきた話で、先生は「伝説」と仰られていたように思うのですが、伝説ということは事実ではないということですか。伝説や神話などを聞いていると、どこからどこまでが事実なのか分からなくなってしまいます。やはり、アジア文化論の時のヒンドゥー教にしろ、今回の仏教にしろ、奥が深いと思います。(2年女子)
(「歴史とは事実ではなく解釈である」という理解があります.「歴史上の人物は,その人が実際どうであったのかよりも,周りの人,そして後世の人たちが,その人のことをどのような人だと解釈したのかによって,その人物像が決定される」とも言われます.事実の集積が歴史なのではないのです.だから,歴史は面白いのです.)
- 四門出遊が一番印象に残りました。この物語には確かに人間が思うことをガウタマ・シッダールタは体験し、人間が一番恐れることを実証したのだと思いました。私事ですが夏休みにアンコールワットに行きました。アジア文化論などで学んだことがさらによく分かりました。(2年女子)
(それは何より :-) )
- 今回の授業ではシッダールタの生い立ちを垣間見ることが出来ました。人間にとって当然のものである老・病・死、私たちはそれを恐れながらも現状に甘んじて何も行動をおこさないでいるんだと思いました。シッダールタは自分の本当の存在意義を見つけるために出家したが、根底にあるものは私たち現代人と共通するものがあると思います。(4年女子)
(だからこそ,仏教は時代・地域を越え,世界宗教となっていったのです.)
- ヴェーダ、反ヴェーダ派の対立と、釈尊の出家に至った理由が同じところにあるというところが、人間の世界の悩みが含まれているように思えた。 自己を客観的に見つめなおすこと、簡単なようでいて実は難しいことである。またその悩みが根源的な人の死、病気、老いであり、逃れられない運命のものである。今の世界はそれらを否定した科学が発展している。医療であれ、美容であれ自分自身の真の姿、またあり方を受け入れられなくては人を受け入れることはできないように思える。自分自身を振り返る、それが宗教のあり方である、と思う。(2年女子)
(多分,自己にきちんと向かい合えない人は,他者にもきちんと向かい合えないのだと思います.すくなくとも「諸行無常」からはそのように言うことができます.)
- ガウダマ・シッダールタが感じたように、私も老いていく自分や病む自分、死んでいく自分というような人間としての真実の姿を受け入れることは難しいと思う。その悩みを解消するためのものを見つけて、それが仏教につながっていったんだなぁと思った。彼にとってはそれが自分を悩みから解放してくれるもので、人間にとって宗教は悩みから解放してくれるものであるべきなんだと思う。だから、対立していろような沙門とバラモンのどちらからも離れて行ったんだと思う。(2年女子)
(下線部:少なくともシッダールタにとっては,「苦悩から救ってくれるものが宗教」でした.)
- シッダールタの四門出遊の話がとても印象深かったです。自己を受け入れられないシッダールタは老いていくことに対して恐怖を感じていたとしたら、毎日生きることさえも彼にとっては苦痛だったのでしょうか。彼の人生はどんなものだったのか・・・ととても興味をそそられました。(2年女子)
(「老いていくことに対する恐怖」というよりも,自分の中に「自分を受け入れられない自分」という矛盾を抱えながら,これからも生き続けていかなければならないことに対する恐怖です.)
- 老・病・死という悩みは人間にとって当然のものではあるが、人々はその存在を知っていながら避けて考えないようにしている。このことに気付き、人間が自分の真実の姿を愛していないと考えた釈尊は、私たちの心の根底にある真理を見つめた人物なのであると理解出来た。そして、ありのままの自分を受け入れることが出来ずに生きていかなければいけないのかという、自己存在の根底にある矛盾する部分に向き合ったからこそ、仏教が生まれるに至ったのであると感じ取ることが出来た。
毎回の講義で学んでいく内容の巧妙なつながりを意識して、固定的な考え方ではなく、柔軟な視点で理解を深めていきたいと思う。 (2年男子)
(おお,グレイトな感想だ!! )
- 今回の授業のキーポイントは四門出遊ではないかと思います。老病死という言葉だけは高校の現代社会の授業で聞いていましたが、それが四門出遊の東南西にそれぞれにいた若き日のガウタマ=シッダールタが嫌悪した人間の姿だというのは初めて知りました。嫌悪する対象でありながらそれが人間であるが故の不可避のものであり、自己の真実の姿として向き合わねばならない。どちらも選びたくないタイプの自己矛盾です。私ならこんな自己矛盾はとりあえず無視するところですが、ガウタマ=シッダールタは父王から与えられた環境で何の疑問を抱かず過ごしていたのではなく、こうした矛盾との葛藤をしたからこそ、悟り得たのではないでしょうか。
さて、話はずれますが、ガウタマ=シッダールタの父王は息子に覇王の道を行かせたいと思い、敢えて俗世に目が行かないようにガウタマ=シッダールタを育てたといいます。しかしながら、老人や病人、死人といった誰もが見たくないものをを見ていない人間が果たしてインドをまとめるほどの器を持った賢王になる事が出来るかは甚だ疑問です。悟りを開いてもらっては困るのは父王の立場(弱小国の王の立場)として当然ですが、世の中のありようや弱い者の姿を知らない息子が仙人が泣くほどの王になれると思ったのでしょうか?ガウタマ=シッダールタの王としての素質は歴史のIfでしかないからこの際置いておくとしても、どの道それを開花させるほどの環境はなく、ガウタマ=シッダールタは悟りを開くべくして開いたように思えます。(2年男子)
(うう,圧巻だなぁ (^^) 頼もしい限りです.)
- 今回の講義では、シッダールタの実存的悩みが一番印象に残りました。確かに私達は「自分が老い、病気になり、そして死ぬ」ということを無視しようとしています。その方が楽ですし、深く考えても答えは出そうにない。以前の私も、あまり深く悩まないようにしていました。しかし、そうもいかなくなりました。この九月の台風18号により、今まで住んでいたアパートが半壊しました。ほとんどの荷物は泥に埋まり、捨てざるを得ませんでした。現在、新しいアパートに移っています。大変でしたが、今は落ち着いて、話の種になっています(^^ゞ。荷物を捨てた辺り、全てを捨てたシッダールタに通じるものがなくもないかな?それにしても、まさか自分の家が一日でなくなるとは思ってもみませんでした。この体験により、「もしかしたら明日、家がなくなって死ぬかもしれないなあ」とか「核戦争が始まり、地球は滅亡する」といった意見も単純に無視出来なくなりました。特に戦争については、現在の国際情勢を考えた場合、本当に起こる可能性も十分考えられます。普段から根源的、本質的な悩みを持つことは大切だと思います。それから、災害に備えることも大切だと分かりました。ただし単純に災害グッズを買うという問題ではなく、緊急事態にどう対応するかという心構えの問題(宗教の問題)かな、と今は思います。アパートから逃げる時、ごく自然に念仏を唱えていた自分に気付きました。いつもは宗教を意識しないのに、こんな時だけ意識するとは情けない話ですが、念仏を唱えると何となく心が軽くなりました。普段から、宗教に対する意識をしっかりと持ち、自分で考えるようにしなければ逆にインチキな宗教に騙されてしまうと思います。今回の貴重な体験(もう一回はイヤだけど)を今後の生活に生かしたいです。 (2年男子)
(大変な,しかし本当に貴重な経験をしましたね. あなたの言うとおり,宗教に対する正しい理解(マトモな宗教に対する真っ当な信仰であってもよい)がないと,サンスカーラを悪用するインチキ集団に騙されやすくなります.)
【総評】老・病・死を背負っている真実の自分と,自ら構築した老・病・死などない自分との間のギャップ(=苦)は,シッダールタが根底の部分で自己を肯定できていないことを意味します.解決のできない自己否定を抱えたままで生き続けていくことは,彼にとって堪えがたいことであったはずです.その悩みをいかに解決,あるいは解消したのか.次回,じっくり見ていくことにしましょう.(鈴木隆泰)
suzuki AT ypu.jp