12月18日
安楽死・尊厳死



 今回は村上由佳さんの『海を抱く』を題材として、みんなで“安楽死”について話し合いました。
 *まず、安楽死の定義について調べたことを発表。ここで
    積極的安楽死:意図的に患者の死期を早める医療措置を積極的に行うこと
    消極的安楽死:患者が死に至ることは認識しているが、死期を遅らせるのに必要
           な処置を行わないこと
    間接的安楽死:直接的な生命短縮ではなく、患者の苦痛のみを除去する治療を行
           なった結果、生命短縮がもたらされた場合のこと
          (http://team-orange.hp.infoseek.co.jp/anrakusi-songensi.htm)
 という説明について、“間接的安楽死とは消極的安楽死に含まれるのではないかという疑問がだされました。

I:今回は私が読んですごく考えさせられた本があるので紹介したいと思います。村上由佳さんの『海を抱く』という本なのですが、全体的に≪安楽死≫について書かれてあるんです。ここで皆さんに質問したいんですが、延命措置をしてでも生き続けたいと思いますか?
A:死んだほうがいいかも・・。
J:当人になったことはないからね・・・。声は聞こえたりもするらしいよ。難しいね。昔に比べて“痛み”というものはある程度ブロックできるから、≪尊厳死≫というのはなくなってきてるらしいよ。当人ではないのだから「死にたい」なんてあんまり言ってほしくないな。生きててもしょうがないから死ぬっていうのはおかしい。何らかの宗教的背景があれば別だけどね。
I:じゃあ、無宗教だったら?
J:それは自分で考えるべきだね。尊厳死は「いかに生きるか」にある。
E:宗教って何だろう?
J:宗教は人間が前向きに生きるためのもの。信じたほうが生きやすいと思うよ。
 宗教は常に前向きに生きるためのものであるべきだしね。
I:皆さん、宗教は持ってますか?
F:仏に手を合わせてからご飯はたべますよ。食べ物に対する感謝の心を忘れないように。
I:私はお正月はいつも神社にお参りにいきます。

I:私は最近“宗教”に興味があるんですが、安楽死も宗教に少し関わりがあると思います。どうですか?
J:死を操作できると思っている社会的観念がある気がする。“生”を所有した考えなのかも。宗教は文化の一つだから。
G:節目節目には仏教的ことはするけど、常に仏教に浸ってるわけじゃない。自分が弱いときには神に頼ったりするけど。でも頼りすぎるのはこわいな。アメリカのキリスト教とか・・。
J:でも、アメリカもキリスト教を完全に信じてるわけではないよ!そうじゃないとイラクを攻撃したりしないからね。聖書の一節に『右の頬を打つ者がいるなら、左の頬をも打たせなさい。』っていう箇所があるけど、あれはキリスト教では“悪は神が退治してくれるもの”だからなんだよ。だから自分たちで報復したりはしないはずなんだよね。
一同:へぇ〜

 *ここで本を朗読。(安楽死希望の父の書類をみせる場面と父が死ぬ場面)

I:本人が死を希望していても、私はやっぱり身内が死ぬのはつらい。そんな思いがこみ上げてきてたまりません。本人の意見を尊重したいと思うけど、やっぱり認めたくはないな。
H:みんなが合意すれば可能なの?
I:詳しくは分かりません、すいません。
J:(本の中の)お父さんは事前にきちんと家族と話をして、納得させておくべきだったと思うよ。
I:このお父さんはとても強がる人だったから、自分が死ぬときの話なんかできなかったのかも・・・。
J:人が死ぬときって周りのみんなが死を認めたときだよ。脳死っていうのがあるけど、脳死臓器移植の場合、家族以外に本人の意思も含まれる。けど、脳死以外の死体においては本人の意思は含まれないんだよね。脳死が普通の死に方ではないと法律では考えられているんだね。でもやっぱり、このお父さんは“生”を自分だけのものだと思っていたところに問題があるんじゃないかな。周りの人間あっての生だもんね。
I:自分の生に対する傲慢さがあったとはおもえないんですが・・。
J:でも家族をきちんと説得できてないよね。そこが問題なんじゃないかな。

I:他に何か意見はありませんか?
A:安楽死をさせるためにコンセントを抜くって殺人罪にはならないの?
I:なりません。
J:今までに一つ、積極的安楽死の例があるよ。痛みをどうやっても拭い去る方法がなかったらしくて。裁判では無罪になったけど。
H:誰が実行してもいいの?
J:いいと思うよ。
B:アメリカで積極的安楽死を実行しようとしたところ、州知事が止めさせたということがありましたが、他人がそこまで介入していいのかなぁと思いました。
C:本当に難しいですね・・。やっぱりどんな形であれ、家族の死って認めづらいかも。
D:そういう状況になっても、断命させるスイッチは押せないと思う。
G:重いなぁ・・
I:話し合う前は、本人の意見を尊重すべきと思ってたけど、みんなの話を聞いて、どっちとも決めかねないなぁと思いました。
H:命は自分だけのものじゃないなぁと思いました。やっぱり家族のことを考えたらつらいし・・(涙声)
K:『命は自分だけの所有物じゃない』というのに考えさせられました。
C:私は、「私は一人じゃなくてみんなと生きてるんだ」ということをしみじみ感じました。
D:以前、実際にそういう状況になったことを思うと、みんなとこうやって話せたことはすごくよかった。
E:本人だけで命の行方を決めるのはいけないことなんですね。家族の望まない死を決断することはできないなぁ。
F:どっちがいいとは言えないけど、やっぱり事前に家族ときちんと話しておくことが大切ですね。

I:今日は本当にいい勉強になりました。一人じゃ考えられないことだったので・・。



《編集後記》
やはり〈生と死〉の問題は難しいなと思いました。またこのように、安楽死という問題になると、本人の意見が聞けないということがあるので本当に周りの人々は大変だと思います。
つらい思いまでさせて生き延びさせる方がいいのか、それとも死んで楽にさせたほうがいいのか・・。そんなことは安易に決断できることではありません。ですから、今回みんなの意見を聞いて、家族ときちんと話し合っておくことがどんなに大切かが分かりました。「自分の命だけど、自分だけの命ではない」ということを学びました。


人の生死(せいし/しょうじ)に関わる重いテーマでしたが,皆さん積極的に参加していて,活発な討論ができました.いろいろな情報を入れることによってこれまでの固定観念を打破しつつも,他者の意見の受け売りにならないよう配慮しつつ,各自が主体的にこの問題に向い合っていって欲しいと思います.
再度私見を述べておくと,安楽死・尊厳死の問題は,
 いかに死ぬか,
ではなく,
 いかに生きるか,
に係っているということです.

(鈴木隆泰)


基礎演習 II・IV

アジア文化論研究室

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