4月24日〜5月9日
死生観


(書記)二回にわたって議論がされています。テーマは「死」について、です。まずは第一回目のものを紹介します。

A:「“死ぬ”ということに対して皆さんはどういう意識を持っていますか?私は“死”というものは人生の中の一番の快楽だと思っています。自分が死ぬということは、意識がストップして、感情が一切なくなり、無になる。これが一番の快楽だと思いますが、皆さんはどうですか?」
「“死”は怖いですか?」
B:「私は怖いです。人間は生まれれば、死が絶対に訪れる。死に方はいろいろあるけれど、死が絶対にやってくるものだからこそ、今生きていることが実感できるし・・・。人が死んでいなくなるというのは寂しいし、死んだらどうなるか想像することはできないしわからないから怖い。」
C:「今“もし死んだら・・・?”と考えたら怖い。でも、生きている間にいろんなつらいことがあるけれど、みんながんばって生きていて、やるべきことをやって、満足感を持って死ねるっていう場合もあるし。」
D:「改めてそういう風に考えると怖いけど、受け止めなきゃいけないという思いもある。」
E:「私も死んだら自分の意識はどうなるのかっていうのを考えたら怖い。意識はどこへいくのか?転生するのか?とか考えます。」
F:「生きているから、死ぬということがあるし、どっちかが欠けてしまうことはない。そんなに怖いことではない。でも周りに忘れられていくことが本当に怖いことです。」
G:「死ぬのは怖い。まだ18年しか生きていない。楽しい時を思い出せるのも少ししかない。自分はまだまだいろんな経験もしていないし、生きることにまだまだ執着があるから、まだ生きていたいと思う。」
A:「私は“死”というそのものだけを考えた時、怖いとは思わない。死んだら忘れられる、とか、病気の苦しみとか、そういうものを排除したら“死”は怖いものではないと思う。例えば自殺にしても、その“死”だけを見つめたとき、本人は楽になったのだし、苦しみから解放されたのだからよかったんではないでしょうか?自殺に対して暗いイメージはつきまとうけれど、それは生きている過程で植えつけられるものであって、“死”自体は違うと思う。」
E:「自殺は悪いものだと思うことはあるけれど、やりきって死ぬのと、逃げて死ぬのと、“死”の意味が違ってくるのでは?」
A:「後悔が残って死ぬのが、認められないというのが私は腑に落ちない。」
E:「他の人がどうこう思うってことですか?」
A:「そうではなくって、自殺というのは一つの選択であって、周りがそういうのを悪いとか言うのは違うのではないかと思うんです。」
H:「生きるという選択があって、生物が死を選ぶということはありえない。生き物が生きるということが普通であって、その中で死を選ぶということは、二つの関係がフラットな状態ではなくなっている。“死”を選んだ方がいいという状態になっている。精神的、肉体的苦痛にどうしても耐えられないとき、人間は死を選ぼうとする。例えば末期癌の患者がいて、激しい痛みや苦しみのために殺してくれ、と言う。これが安楽死という方法だ。しかし、今モルヒネという痛みを止める麻酔があって、癌告知をしないと使えないものなのだけど、それを打つと痛みがなくなり、すると患者は生きたいと思い始める。だから、苦しみとか死にたいと思う原因をとりのぞいてやれば、正常な状態に戻るんだ。」
B:「今“自殺する人間の原因を取り除けばいい”と言うのを聞いて、思ったことがあります。中国の映画俳優で若くして自殺した人がいて、第三者が言うには、“その人は美を追求し、美を保つために、年をとる前に死んだ”というのがあって・・・。その場合は、原因にはならないのでは?」
H:「それは違うと思う。美を保つだけ、ではなくて、当たり前を当たり前として受け止められないというのは病んでいるということだ。無想の中で生きていけなくてはならない。」
A:「そういう考え方が嫌なんです。周りが騒ぐのも私は嫌です。」
H:「本人がよければいい世界にいるから、他人にどうこう言われることは覚悟しなければならないし、かばう必要もないよ。」
B:「Hさんの言うことも分かる。けれど、その中国の映画俳優みたいな選択もありだと思う。不登校での自殺とはまた違っている。」
A:「でも、自殺にしたって、病死にしたって、その経過は様々だけど、“死”という瞬間だけは幸福なもので、快楽ではないのでしょうか?」
H:「それは証明不可能な世界の話だよね。死というのは形がなく、人々も死んだ記憶もなくて、やったこともないのに、議論をするのは難しい。私は自分が何にもなくなってしまうというのはとても怖いことだと思うけど。死ぬ瞬間には本当に快楽があるの?」
A:「快楽はないです。死の瞬間に全てがそこでストンと終わってしまうのだから、怖いとかそういった感情もなくなると思います。」
H:「身内の人が亡くなったことは?」
A:「あります。」
H:「人が死んで動かなくなって、冷たくなって、異臭を放ち、バクテリアになっていく。そういうのは悲しいし、かわいそうだと思うし、私もあんなふうになったら嫌だし。個人個人の考えがあるけれど・・・」
A:「祖父、祖母が死んだときはびっくりしたけど・・・それは私が生きているから感じることであって、死んだ人にはそういう感情はないだろうし。自分が死んだらとかいうのは考えないです。」
H:「では、何のために生きているんだろう?」
A:「何のためにって言われると・・・。自分には欲望があって、そういう欲望を満たすためだと思います。」
H:「それでは生きている意味はないよ。死ぬために生きているのかな。」
A:「そうではなくて・・・。さっきの話で言えば、欲望がなくなって自殺するんだと思います。」
H:「死にたい欲望がそれよりも勝ったということでしょう。それも欲望だ。」


《編集後記その1》
以上が第一回目です。“死”という形のないものは、あいまいで、だからこそ私達も様々な見方をもって意見しています。死そのものだけを考えた場合、確かに穏やかで静かなものです。ですが、死には切っても切れない遺族の感情や記憶、生きていた頃のその人の歩んできた道程というものがあります。そのへんを切り離せるか離せないかで意見が食い違い、平行線の議論になっていたような印象を受けました。第二回目は、一回目の反省点も生かして、宗教と哲学の面から“死”について考察しています。



A:「まず宗教における“死”についてやりたいと思います。人間は“死”の観念があること事態特異で、そしてそれは否定的なものから入っていて、死後には墓を作って祭ります。今回は死後どのようになるかを調べてみました。ユダヤ教では、天国地獄の観念はなく、イェルサレムという理想郷をめざしています。ユダヤ教においての“死”とは、最後の審判が下るまでのことをいいます。」
B:「地獄はないのですか?では最後の審判というのは?」
A:「最後の審判は神がこの世を裁くことであって、理想郷で世界を覆うためのことを意味します。それに、いつかは復活するという前提でいるから、よみがえった日に起き上がれるように杖を墓に添えるというものもあって、焼かずに土葬します。よみがえるときに一緒に悪いこともよみがえるといいます。キリスト教はユダヤ教と違って、人はもともと罪を持ちながらにして生まれてくるといいます。現世でいい行いをして罪を償うことによって、死んだときには永遠に幸せが続くとされています。例えば、キリスト教では癌の告知が可能とされていて、神が“癌と戦え”といっているのだと受け止めるそうです。次にイスラム教は、人間は真理にそむいた罪人であり、罪の自覚が悔い改めであるとされています。しかし、この場合、“信じるものは救われる”ではなくて、“信じても救われるとは限らない”といいます。ヒンドゥー教では、魂は再生し生まれ変わるという輪廻転生の考え方があって、反対に仏教は、輪廻のない世界で、死後は浄土に行くものだとされ、人間の行為の善悪に応じて、それ相応の報いがあるという因果応報の考え方があります。」
B:「天国に行くか地獄に行くかが最後の審判であって、神の国に行くということもそういうことではないのだろうか?だから、ユダヤ教もキリスト教も同じ系統だと思うのですが。争っているようで、二つは兄弟みたいなものだ。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も同じ神を信仰している。」
A:「そうなんですか。とにかく、宗教は独自の世界観を作り上げていて、それを現世の背徳にしているように思います。
次に哲学の面から見ていきたいと思います。まずプラトンが哲学的な魂について言っていて、魂も肉体も偽物で死んでイデアという真実の世界に行くのだと言う“魂の不死”があります。エピクロスは魂を否定していて、“私が存在する限り死は存在しない”といっています。これは、前回に私が話したことと同じことを言っています。共感できる部分があります。」
B:「でも、エピクロスのはあなたの考え方の裏づけにはならないよね。aがbで、bがaだと言っているようなものだろう。」
C:「エピクロスが言っているのは、その人生だけっていうことですよね?」
A:「人間は生きているだけだということです。そして、次に、火とかそういったものにも魂があるというのがストア派の考え方です。さらに、それを支配しているのも物質である神だ、といっています。ウノナームは唯物論者で、“無いことが恐ろしいのだ”といって、“だから自分は来世の存在を信じたい”と言っています。死んで神に戻るというのは嫌で、来世でも自分でありたいと思ったそうです。」
B:「ヒンドゥー的な考え方だね。」
A:「そして、ハイデガーという人がその後に出てきて、この人は“死というものを曖昧なものにして快楽に走るのは死を避けている”とし、“死を意識することで本当の人生の意味を開示するのだ”という考え方を持っていました。」
「宗教や西洋哲学において、いろいろな考え方が存在します。私は、来世はないと思います。それについて、皆さんの意見はありますか?」
C:「来世がないのは怖いです。だから、Aさんは来世があったらいいなとは思わないのですか?」
A:「あったらいいなとは思うけれど、なぜか信じられない。」
D:「では、来世を信じている人をうらやましく思ったりはないのですか?」
A:「うらやましくはない。ただ、信じることができたら楽になるだろうなとは思う。」
E:「エピクロスとハイデガーの死後についての考え方の違いを聞いていいですか?」
A:「ハイデガーは来世があるとは特に言っていないけど、“日々、人は死んでゆく。未来は分かれないけれど、最終的には死はやってくるから、日々をまっとうしましょう。”というもので、エピクロスは、それとは違い“死”をすべてから切り離した“点”というもので考えているのです。
日本の死の観念においては、仏教も神道も入り混じっていて、ぐちゃぐちゃになっているように思います。もともと魂の行方は山や海の向こうに帰るものだ、などの観念があって、そこに宗教が入ってきて、天国みたいなものがあるのだと言い出したのだといいます。そういったことから、日本は地獄の観念が薄いのではないでしょうか?皆さんは地獄についてどう思いますか?」
E:「来世を信じるという意味ではなくて、でも、天国と地獄は信じている。生きている間に天国にいけるような行いをしていたら行けるのかなあ、という思いはある。してはいけないこと、心があとあと痛むようなことをしなければ地獄には行かないと思う。」
A:「私は、悪いことをしたなと思うのなら、そこに道徳が出てくると思う。したら地獄に行くとか、そういう風には考えられない。」
F:「私もEさんと一緒で、天国・地獄はあるかなと思う。けれど、来世の存在は分からない。よく、人が死んだら天国にいって・・・みたいなことを言うでしょ?そういうので天国は雲の上にある、と思ってしまいます。悪いことをして、うしろめたい気持ちを引きずっているのは嫌だから、そういうのはやりたくない、と思う。“悪いことをしたら地獄へ行く”というような考えはありません。」
A:「葬式のときの話なんだけれど、人が“しょうがないよね”といっているのを聞いた。そういう言葉を聞くと“死”にたいしてあきらめているように聞こえる。」
F:「長い短いはあるけれど、人間はみんな死んでいくしね。」
A:「でも、キリスト教にはそういう観念はないみたいで、日本は独特みたい。ある意味、これが宗教なのかな?」
E:「私の家では、お祈りもないし、49日とか法事とかはやるけれど、それは宗教ではなくて、やらねばならない習慣、文化というような感じになっている。そういうことを考えている人は少ないと思う。数珠で拝んだりするけれど、形だけだし・・・」
A:「場合によって、仏教が強くなったり神道が強く出たりするのが、一つの宗教になっているのかな。」
C:「神様にお祈りするとき、いろんな神様が出てきて、神社では神社の神様が出てきて、普段考える神様とはまた別で、・・・だから、神様は一つではないと思う。」
E:「私はサビエル高校出身だから、お祈りもした。でも、場所によっては宗教を変えなければいけない。家は仏教なのに、学校ではキリスト教・・・みたいな矛盾はあった。」
A:「それによって、神を信じたりしたんですよね?そういうのは今どういう影響をもたらしました?」
E:「いい勉強にはなったけれど、あまり・・・」
A:「例えば、“死”についての観念は、仏教のあきらめのような死とキリスト教においての観念も両方学んできちゃったのだろうけど・・・。“死”についての授業もあったの?」
E:「“神のもとに戻る”っていうものだったけれど、私の考え方は別で、学校は学校という風な感じでした。」
A:「そっかあ。昔の日本の人は前世の人が神様になって近くにいるっていうけど。」
F:「お盆になったら、魂が還ってくるというから、魂は存在するのかな?」
E:「魂の通り道っていうものがあって、昔の人は、今で言う建物の5、6階で遭遇する人が多かったらしい。それ以外にも、魂の通り道はある。路地とか家とかにも。」
F:「魂は信じないの?」
A:「信じていません。だけど、魂がないというのは、魂があるという前提で考えているということだから信じているということになるのかも。」
F:「肉体はなくなってしまうけれど、魂は存在していて体から抜けていくというようなイメージはできます。」
E:「あと、ハイデガーの意見を聞いて思い出したことがあって、ある先生が、“二週間後に死ぬと言われても悔いはない”といっていて、それに対してすごいなーと思った。だから、今生きている間に頑張ろう、と思った。」
A:「私は、ハイデガーみたいなことは言ったけれど、二週間後に絶対死ぬとかいわれると怖いし・・・。前回では、“死”の瞬間だけを考えていた。でもやっぱり、その瞬間があるにはそれまでの過程を考えなければならないし、“死”は無であると思うと恐ろしいし、自分なりにそれを克服していきたい。ただ、何も信じないということはおかしいとは思わない。」
F:「来世とか、そういうものの存在の証明はできないし、人々が作り上げてきたものだし、それをAさんが信じる・信じないは自由だし、信じないこともありだと思う。」
B:「幸せの観念にしても、すべて人が作り上げてきたものだしね。自然においても、人間が住みやすいように作り上げられている。」
「学ぶということには意味がある。怖いのは、昔は“死”というものを考える青年がいたけれど、最近ではそういった人は少なく、誰かがついて来いといえば、フラフラついていきそうな世の中になっている。ものを買うように、安易についていくんだ。だから、もっと昔のように書物を読み、人生の先輩から話を聞いたりして、考えるということが大事なんだ。安易に求めず、悩んでいくことに、成長の過程があるのだと思う。」


《編集後記その2》 
以上が第二回目の議論の様子でした。
なんの問題意識も持たずに、淡々と過ごしている日々は、本当に私達の人生の糧になっているのでしょうか?様々なものごとについて、これはどうなんだろうと想像し、様々な視点から見つめ、考え、自分なりの答えを見つけ出していくことで、人は大きくなっていくのだと思います。悩んだり、苦しいことは避けて通りたいものだけれど、それにあえて立ち向かうことでなにかが、見えてくるのかもしれません。


死生観はなかなか重いテーマで,「やり直し」を含め二回にわたって行いました.結果,時間もかけられ,また詳しく調べることもでき,よい演習になったと思います.このスタイルを一つのお手本として(ただし「やり直しをする」ことは除く (^^; ),これからも続けていきましょう.

(鈴木隆泰)


基礎演習 I・III

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