10/10 授業の感想2号と回答
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形而上学的問題の「解決」と「解消」という観点を織り交ぜながら,キリスト教・イスラーム教・仏教という三大世界宗教を比較しました.
- バラモンと反バラモンの思想の対立の話が興味深かったです。こうしてみると思想面では昔と今と大して変わっていないんですね。これは人間が進歩していないということなのか、それとも思想面ではこれが人間の及ぶ範囲の限界ということなのか、先生はどう思われますか?(2年女子)
(思想の骨格部分が共通しているということであって,「進歩していない」とか「限界だ」とかいうことではないのだと *思いたい* のですが,うーん,実際はどうなんでしょう... 君,鋭いね.)
- アメリカとイスラーム諸国の対立。 人を殺してはならないということを宗教が解決してくれるはずなのに、何故戦争やテロが起きるのか。それは、その宗教が時代の変化についていけないのか、また、その宗教が名ばかりの宗教になり、人々に伝わっていないのか。または、その宗教が知らずのうちに変化してしまっているのか。などと、考えました。(3年男子)
(イスラーム教の場合には聖戦がきちんと定義されていますが,キリスト教国家が戦争をしちゃぁいけませんよ.)
- 以前から考えていたことなんですが、「業・輪廻・解脱」というヒンドゥー・バラモンの世界観は、ある人にとって成立しない
迎えることが出来ない場合もあるのでしょうか?例えば、罪を犯してしまったり、嘘をついてしまった場合は「解脱」が不可能になり、ヴァルハラ(天国)へ行けなくて、「業・輪廻・解脱」という円は途中で途絶えてしまうのでしょうか?(2年女子)
(まず,ヴァルハラは北欧神話において,戦死した者たちの安らぎの場と見なされているものであって,インドの話とは関係ありません.
ヒンドゥー・バラモン的世界観では,悪業をなした人はその報いを受けて輪廻の低位の状態(地獄界や餓鬼界など)に落とされます.そして,そこで罪を償って高位の状態を目指し,最終的には輪廻のサイクルを抜け出す(解脱する)ことを願うのです.)
- 後半の内容はかなり難しいものだったと思います。結構いっぱいいっぱいでした(笑)ところで、授業前半のとき、先生が神のことを「ヒト」と呼んで訂正していたところが少し気になりました。というのも、神とはどんな単位で表されるのだろうと思ったからです。どんな信者にとっても神は「人」や「人物」として存在するのか、それともまた違った形で存在するものなのか、それとも単位なんてものはないのか・・・授業に全然関係ないかもしれませんが、気になってしまいました。「火の鳥」は昔小さいときにアニメで見たことがあったと思います!でも良く覚えてないけど悲しい話だったような記憶があってあまり良い印象に残っていません・・。でもこの機会にぜひもう一度読んで見たいと思いました。よろしくお願いします!丑の刻参りの話もとてもおもしろかったです。(2年女子)
(「神」と一言で言っても,宗教毎に本当に様々ですからね.一概には言えません.『火の鳥』にも様々なストーリーがあるんですよ.)
- キリスト教・イスラーム教と仏教の比較が興味深かったです。厳格な一神教である前者に対して、仏教は絶対者の観念がないということでした。私は法事の時にお坊さんのお説教で「阿弥陀仏、弥勒、観音」などの言葉を聞きましたが、それらはどういう存在なのですか。あ、今日の講義で最もわからなかったのはヒンドゥー・バラモンと反バラモンの思想の違いの説明で、「唯物論」が出てきたあたりでした。唯物論とはいったい何なのかよくわからなかったです。今日の講義も難しかったです…。(2年女子)
(阿弥陀仏は遠い世界にいる(とされる)仏陀で,弥勒と観音は将来仏陀になろうと修行している菩薩です.厳密に言えば必ずしもそうではないところもあったりするのですが,現段階で余り詳しく説明しても混乱してしまうでしょうから,
唯物論とは精神の実在を否定して物質の根源性、独自性のみを主張する立場のことです.もう大学生なのだから,唯物論とは何かくらい自分で調べましょう.)
- 仏教の最終目標が”buddha
Buddhaになること”だったとは驚きです。でも、仏教徒なら誰でも buddhaBuddhaになれるということではないですよね?buddhaBuddhaになるための条件というものはあるのでしょうか?ところで、Gautama Siddharthaはものすごい共感性があったということですが、講義中の例はすべて”死”に対する共感だったと思うのですが、死以外に貧困やその他共感したこと、ものはなかったのでしょうか?(2年女子)
(一般名詞としての buddha は小文字で始めます.the Buddha であれば,通常は仏教の開祖である釈尊を指します.buddha は真理に目覚めた人の意ですから,真理に目覚めることが buddha になる条件となります.と,これでは身も蓋もないですね (^^; サンスカーラを通さない世界把握ができるようになり,心が安定して平安となった状態(涅槃)に達し,その状態を他の人にも享受させたいと願い,そしてそれを実行することができたとき,その人を buddha と呼ぶことができます.
共感性の例として講義中には「死」に着目しましたが,他にも「生」「老」「病」が代表として挙げられます.「生老病死」を仏教では「四苦」と呼びます.)
- Gautama Siddhartha がどの宗教にも身を寄せることなく自分自身で答えを見つけようとした結果、生まれたのが仏教なんですね。私も自分の(地球に生きる生命体の一員である人間としての)生き方についてどうあるべきか考えることがあるので、自身で答えを見つけようと動き出した Siddhartha に共感するし魅力を感じます。(2年女子)
(「自分で答えを見つけようとする」こと自体は,当時の自由思想家たちの間では珍しくありませんでした.彼が凄いのは,テーゼ,アンチ・テーゼの争いを冷静に見つめることができ,自分なりの解答を導くことができたところでしょう.彼の共感性の高さは,「なぜ両者は言い争っているのか.自分がそうならないためにはどうしたらよいのか.」ということに気づいた点にも表れていると思います.)
- 新興宗教と聞くと、何かいかがわしく、お金を巻き上げている、信者を食いものにしている、というイメージがあります。もちろんそれは、新興宗教、また宗教全体のうちの、一部の団体によるものでしょう。
そうした一部の団体のほとんどが解決型なのではないでしょうか。彼らにだまされてしまった人々は、安易な救済を求めたのではないでしょうか。
今の世の中がそうさせているのか、宗教との付き合い方を忘れてしまったのか、それはわかりません。しかし世界三大宗教であるキリスト・イスラーム・仏教が解消型を基本にしていることを考え、今まで残ってきたことを考えると、やはり宗教における安易な救済というものには疑うべきものがあると思います。(2年女子)
(そうですね.ただしいざとなるとコロッと騙されてしまう人が後を絶たないのは非常に残念なことです.正しい信仰を持っていない人間はとても弱いですから.)
- 時間論や運命論など反バラモンの考え方が現代も受け継がれている、というか似ている点があるというのが面白かったです。宗教の共通点において開祖の存在というのがありましたが、じゃあ彼らがいなければその宗教は生まれなかったのかという疑問が生まれました。昔のことなので謎ばかりですが、あとから人々が勝手に作った話だったり伝えられるうちに話が変わってしまっていたりとかが絶対あると思うので、不明かつ曖昧な感じが私は嫌だなぁと思いました。(2年女子)
(創唱宗教の場合,創唱者がいなければその宗教は生まれてきません.昔のことだからといって謎ばかりではないのですよ.)
- キリスト教とイスラーム教が、同じユダヤ教から生まれ、共通点が多い故に対立してしまうというのは、分かる気がします。先生もおっしゃっていましたが、これって人間も同じですよね。あと、運命論!!どうせ運命は始めから決まっているのだから、努力をせずに諦めてしまう。まさに今の私の心境・・・。今日も、宗教は私たちの身近にあるものなのだ、ということを痛感しました。(2年女子)
(運命論はダメだぞ! ダーッ!! )
- アンチテーゼの<時間は人とは無関係に流れていく>という考えは私はまさにその通りだと思いました。もっと時間がほしいと思うことはよくあります。でも悲しいことに時間は止まってくれません。よく表現されてると思いました。<時間は人とは無関係に流れていく>(2年女子)
(それも一つの宿命論・運命論なんだ! ダーッ!! )
- 解消型と解決型の違いは国民性に表れているように感じました。日本人の日常の行動は解消型だな、と思いました。(2年女子)
(解決型は時として大きな軋轢を生みます.それが国家間の場合もありますし,身の回りの社会でのこともあります.そして,一個人の内部で起きることすらあるのです.)
- 今回キリスト教とイスラーム教、仏教との違いを比べてみると、前回先生が例に挙げられた「宇宙の始まりは何か?」という問いに対して、「神が創ったのだ」という答えは解決型なんだとわかりました。それと共に、解消型の仏教はどんな答えになるのかという疑問が新たに生まれました。 私はなんだか納得いかない解決型よりも、問題そのものがなくなっていく解消型の方がいいと感じました。時間論では、テーゼとしての宗教色が濃い考えと、アンチテーゼとしての現実的な考え方の対立が印象に残りました。2つの対立する考えを知り、自分はどちらかと考えてしまいました。しかし、この二つの考え方をどちらかではなく、外側から両方を見たシッダールタは、枠にはまらない考え方を持っていたのだと感心しました。(2年女子)
(彼の場合,単に「枠にはまらない」というレヴェルを超えていると思っています.)
- satya の力の話がおもしろかったです。英語関係の授業で、人間の話す言葉の力のことを少し考えたので、よく分かりました。よく、その一言が私の人生を変えた、とか言います。これからの人生、人に良い影響を与えることが出来る言葉を話せる人になれたらな、と思います。今日は改めて相手に与える言葉がそれだけの影響を持つことがあるということを知りました。それと解決、解消型の話も分かりやすかったです。的確な分類だと思います。(3年女子)
(人によい影響を与えられることばを話せる人になりましょう.お互いに :-) )
- 仏教は世界三大宗教に含まれますが、基本的な考え方(解決と解消など)や発展の仕方を見ると、果たして同じ枠内のものとして納得してよいものなのかな…と感じました。今日の講義はヒンドゥー・バラモン教と仏教、テーゼとアンチ・テーゼと両者を比較してくれたので分かりやすかったのですが、ノートを振り返ると1つの疑問が生じました。仏教はテーゼ、アンチ・テーゼの枠外にいるということで仏陀もその位置から眺めていたということですが、仏陀は出家する前のGautama Siddharthaだった時はアンチ・テーゼの考え方だったのでしょうか?(3年女子)
(出家前後の彼はそうだったと考えていいと思います.)
- 宗教は形而上学的問題の解答を与えてくれることもあるという考え方は仏教の方ですか?(3年女子)
(仏教も含めた広い見地からの考え方です.)
- 宗教には解決型と解消型という違いがあることを初めて知りました。あとヒンドゥー・バラモン教に対してアンチ・テーゼとなる自由思想について先生が現代にも通用する考えがたくさんあるとおっしゃっていましたが、その通りだと思いました。宗教の中の道徳・倫理感や自由思想には共感できる部分とできない部分があって結局自分がどこに行けばいいのか分からなくなったりしそうですね。Gautama Siddartaもそんなやりきれない思いをずっとかかえていたんでしょうか。人は生きていく中で自分の居場所を求め続けているんだろなうと思いました。(2年女子)
(そう言えば,ガンダムもエヴァンゲリオンも,主人公の「居場所探し」がテーマの一つになっていましたね.どうでもいいことかも知れませんが.)
- いろんなことを考えるのは誰にだってあることだと思います。しかし、それで出た結論が正しいかどうかはわかりません。人は自分自身で結論を出すまでに、迷いが生じたり、行き詰まったりして、悩み考えながらも前に進むものです。その過程で、宗教も私たちをサポートしてくれる存在であるのではないかと思います。自分という人間が在るのは、私という人間がいて、私をサポートしてくれる人が在り、私が考えようとすることをうまく表現し、導いてくれるものがあるからだと思います。私自身その考え方が何なのかはわかりませんが、仏教というものに少なからず影響を受けているといっても間違えではないような気がしてきました。(2年女子)
(下線部のような考え方を,仏教では「縁起 pratiityasamputpaada」と言います.)
- いったん自分の中の「宗教」を取り払ってまっさらになって聞くことが必要だなと感じました。私が違和感を感じるのは解決型であって解消型はまた別のものであるということを新たに思いました。実際、仏教の格言?(五百羅漢像に一言一言書いてあるような)を聞いてなんとなく安心する自分もいるし。解決・解消の言葉の違いに良い意味で大きく動揺しました。(2年女子)
(We will we will rock you! ←知ってます? Queen の名曲です.)
- 今日は世界三大宗教について詳しく知ることが出来てとても勉強になりました。特にキリスト教とイスラーム教がユダヤ教にアンチ・テーゼの形で成立したこと、仏教はアンチ・テーゼを超えた違う次元で成立したことには、(難しくてきちんと理解出来たかは分かりませんが)感心しました。こううやって考えてみると、仏教が一番平和な宗教だなと思いました。そして仏教についてますます興味がわいてきました。次の講義も楽しみにしています。(2年女子)
(楽しみにしていて下さい :-) )
- 戦争の発端の一要素が宗教にあるという事実が、私には受け入れられませんでした。人々を導き、救うものである宗教が、その差異(類似)によって争いを生み出すなんて、悲しすぎます。キリスト教とイスラーム教はユダヤ教から誕生した兄弟宗教だからこそ、エルサレムを巡る紛争に解決を見るのではなく、お互いを尊重しあう和解に解消を見出せないのでしょうか。
仏教は、宗教ではあるけれども、宗教を超越したものであると先生がおっしゃっていたことに、今日学んだ仏教の特徴やGautama Siddharthaの生き方が関連しているのだろうなと感じました。(2年女子)
(こう言うと驚くかも知れませんが,宗教は必ずしも「一般的な意味での平和」と直結するものではないのです.狭い意味での宗教は,あくまで「その宗教内部の人間を導き救うもの」であって,それ以外の人にとっては時として害毒となることも決して珍しいことではありません.)
- 何故エルサレムにはあんなに聖地が集まっているのかと疑問に思っていましたが、源が同じだったとは驚きです。同系なため、相手を認めるのは自分の教義の否定につながる可能性があるので、争ってしまうのだろうなと思いました。
キリスト教やイスラーム教は神という絶対的存在が求心力の一つだと思うんですが、仏教の、三大宗教の一つになるほどの求心力を持つものは何だったのでしょうか?(2年女子)
(やっぱりブッダという存在だったと思います.)
- 自転車の鍵を探していたら、電車に乗り遅れてしまいました。1時間に1本しか電車が走ってないので、講義を受ける事が出来ませんでした。とても楽しみにしていたのに残念です。(2年女子)
(次回は出席してくださいね.)
- 仏教はインドであるから生まれえた宗教なのでしょうか?(2年女子)
(そうだと思っています.ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教に見られる唯一絶対の神に対する信仰は,それらが生まれた場所が過酷な砂漠であったことと無関係ではありません.それに対してインドはとっても豊かなところです.異るものを受け入れる余裕も,じっくりものを考える余裕もあります.)
- 久しぶりに satya という言葉を聞いて、インドを感じました。アジア文化論で難しく考えすぎて、こんがらがった記憶もよみがえりました。今回、世界三大宗教を比べましたが、キリスト教とイスラム教はもともとが同じユダヤ教だから親近憎悪でいがみあうという説明には納得でした。それに比べて仏教は対立の枠外にある特異な宗教で、とても平和だと思いました。宗教は本来、人々の助けとなるものだと思いますから、宗教が原因で争いあうことはイエスもムハマンドも望んでなかったと思います。無宗教の私が言うことは簡単ですが、仏教のように宗教戦争などありえない宗教であってほしいです。(2年女子)
(無宗教って本当はどういうことなんだろうか??)
- 私はオウム真理教で、なぜ科学者があんなものを信じてしまったのかというのが理解できませんでした。しかし、今日の授業の問題の解決と解消という部分で、少し解ったような気がします。現代の科学的考え方だと、物事には必ず正解といえるものがあり、問題・命題の解決が目的となっているので、彼らはその延長線上に形而上的問題にも解決をもとめてしまったのではないでしょうか。また、多くの日本人は宗教とは問題を解決してくれるものと感じていると思います。そのため、狂信的になるか、全く関係ないと思ってしまうか、両極端の立場になってしまうのではないでしょうか。真の宗教は問題の解消を目指しているというのは、とても重要な点なので、もっと一般的常識になったら日本でもより良い宗教観が持てるようになるのではと思いました。(3年女子)
(下線部について.必ずしもそうとは言えません.科学を中途半端に理解していると,そうだと勘違いしてしまう場合があります.正解がなかった場合,どうして正解がないのかを考えるのが科学です.無理矢理正解をこじつけるのが科学ではありません.)
- 宗教というものは、形而上学的問題の解決を与えてくれる「ものである」と思っていました。狭い見方をしていたんですね・・・。ところで、仏教は宗教戦争をしていないとのことでしたが、少なくとも日本ではあったような気がするのですが。(2年女子)
(たしかに京都の法華町衆と,比叡の僧兵・本願寺門徒との間の争いはありましたね.でも戦争とは呼べないと思います.)
- 今回の授業の三大宗教の説明はとてもわかりやすかったです。特に三大宗教における形而上学的問題の解決の型の説明に興味を持ちました。それで、少し疑問をもったのですが、(1)仏教が解消方でキリスト教とイスラーム教がやや解決型であるのは絶対者の存在の有無によるものというのは理解できるのですが、なぜキリスト教とイスラーム教は「やや」なんでしょうか?絶対者がいるのならば、完全に解決型でもいいような気がするの
んですが。それともう少し質問があります。(2)ガウタマ、シッダールタはクシャトリヤ階級で、29歳で出家したとのことですが、当時の社会において出家はどのような意味を持つのんでしょうか?出家すると、カーストから離れるということですか?それとも出家しても自分の身分はそのままなのんでしょうか?また出家は誰でもできるものなのんですか?(2年男子)
(言葉遣いには注意するように.
(1) キリスト教徒やイスラーム教徒が「永遠に生きたい」と願ったら,その願いは解決されると思いますか?
(2) 出家した人はカーストから放れます.それが家(カースト制に基づいて世襲されるもの)を捨て去るということです.生活期法に基づく遊行生活(アジア文化論I のノート参照)の場合は少し事情が異なりますが,自由思想家(沙門)Iの出家は,完全にカーストから切り放されます.)
- 宗教が、悩み、不安に対して「解決」ではなくて「解消」に作用するというのはなるほど、と思いました。仏教とキリスト教、イスラーム教との違いは、今回の講義での一番の発見でした。
それにしても、インドの時の流れの観念概念は面白いですね。100年の誤差でも良いほうというのは、すごいです。時間や人が綿々と廻っていく「輪廻」の考えが息づくインドならではことなのでしょう。インドに行ったら世界観が変わる、と言われたことがありますが、まさに。(2年男子)
(インド,面白いよ〜.)
- 仏教興起の時点において、バラモン教に関してヒンドゥー・バラモン教という表現を用いることには問題はないのでしょうか?いわゆるヒンドゥー教とは、ヴェーダ聖典をその根拠とするバラモン教にヴェーダ聖典とは無関係なインドの諸地域などの土着の信仰が結びついて出来ていったものだったと記憶しています。だいたい紀元前後を境に、前をバラモン教、後をヒンドゥー教と呼ぶといった感じで、ヒンドゥー教をヒンドゥー・バラモン教と呼ぶには特に抵抗は感じないのですがバラモン教の時代までヒンドゥー・バラモン教と呼ぶのには少し違和感を感じました。(4年男子)
(バラモン教を,ヒンドゥー教の初期段階と定義することもできますよ.ヴェーダの段階ですでに土着のものと混交していますから,ヒンドゥー教とバラモン教とを峻別するのはナンセンスだと思っています.)
- 輪廻し、解脱した後の魂はどこへいくのですか??(2年男子)
(「どこへ行くのか」と尋ねられれば「分かりません」と答えるしかありません.「どこへ行くと考えられていたのか」と尋ねられれば「われわれの経験を超えた絶対平和・寂静の世界」が答えです.)
- カピラバストゥの王子のところで、ガウタマ・シッダールタは共感性が高く思い込みが強いという話がありましたが、誰もが共感性というものを持っているけれど、物事に対してどうしてそこまで共感してしまうのか、なかなか分かりませんでした。人の死に出会い、自分もいつかは死ぬんだろうし、それはどういう死に方なのかなぁと考えてしまうことはありますが、人間というものは死の恐怖をいつもいつも感じていては生きていけないし、なんにでもすぐ共感してしまうのは苦しいことだと思いました。(2年女子)
(普通の人とは違っていたからこそ,彼は仏教という世界三大宗教に数えられる宗教の開祖になっていったのだと思います.)
- どの宗教も信仰するなら誰にでも向くものでしょうか。それともその人の性質によって向き不向きなどあるとお考えですか?それとガウタマ・シッダールタの共感性が高いというのは興味深い話でした。当時は死に触れることは現代よりも非常に多かった筈ですし、また身近なものであったのでしょうね。その度に「自分も死ぬんだ」と思うのはやはり辛いことだったのでしょうか。私は「自分も」ではなく「自分がそれだったら」と思うことはよくあって、たまらない思いをすることがあります。同じ次元で考えるのも変ですが、少し共感する部分もありました。(2年女子)
(宗教に向き・不向きはあります.特に自然順応型の日本人には,砂漠で生まれたキリスト教やイスラーム教などの一神教は馴染みにくいようです.)
- 多くの人が触れているようだが、私も同じく印象に残った点が問題の[解決型]と[解消型]の話。前回サンスカーラに関心があると述べたが、これは典型的な解消型の方だと思った。とある問題にぶつかったとき、それを認識しようとするときに作用するのがサンスカーラであるが、その問題そのもの=ありのままと自分の中の問題意識には必ずズレが生じるとのことだった。それはつまり解決できる問題ではない、と考えられるだろう。自分自身の許容範囲以上の問題は本当に多い。人間関係なんかは特に悩めば悩むほど解決できなかったり。結局そういいった問題がどうなるかというと解決していない場合が多い。問題そのものが自分の意識から薄れていく結果として解消されていくのだと思う。「時間は業によって作るもの」という言葉はよくわからなかったが、時間は問題を解消するために「人とは無関係に流れている」とは言えないと思った。時間はサンスカーラの一部と考えていいのでしょうか。(2年女子)
(ヒンドゥー・バラモン思想においては,時間を創り出す行為もサンスカーラと呼ばれます.)
- 世界三大宗教を挙げて説明されていましたが、仏教は他の2つの宗教と性格がずいぶん違うと感じました。仏教は他の2つと違って、自分で真理を切り開いてゆくという印象を強く受けました。だから問題を「解決」で留めず、そのものを消し去ってしまう「解消」にすることができるのではないかと思います。他の2つの宗教と比べて「自己」の意識によるところが強いと思います。これは神という絶対者の観念がないためでしょうか?それとも Gautama Siddhartha が人間であり人間が真理に目覚めた事から始まった宗教だからでしょうか?(2年女子)
(両方相まっていると思います.よい視点ですね.関心しました.)
- 「仏教の最終目標はbuddhaになることである」という話がありましたが、「buddha」の意味が「真理に目覚めた人」であることから、「真理に目覚めることが最終目標である」と解釈してよいのでしょうか?それとも、buddha=釈尊そのものになることが最終目標なのでしょうか?
細かい部分ですが、インドの人々はいい名前をつけるという点に興味を持ちました。シッダールタの「目的を達成した人」、ヤショーダラーの「名声をもつ女性」という名前の意味は今回初めて知ったので驚きました。私は日本人の命名の仕方もとても好きですが、インド人の場合は遥かにスケールが大きいという印象を受けました。また、釈尊が自分の子供に「障害」というような意味の名前をつけたといわれますが、やはりこのような命名のしかたはインドでは滅多にないことなのでしょうか(おそらくそうだろうとは思うのですが)。(2年女子)
(仏教の開祖である釈尊は,真理に目覚めた人= buddha の一人です.真理に目覚めた人の数だけ buddha は誕生できます.釈尊の息子ラーフラは「障害物,邪魔者」という意味ですから,たしかに普通じゃないですね.)
- 仏教というものは根元から平和的なのですね。どの宗教でもそういえると思いますが・・・。それぞれの思想の奥深さに圧倒されます。人も考える生き物ですから、社会が潤ってゆとりができれば誰でもその人なりの哲学にはしると思うのです。私自身、いろんなことを考えますから。形のない問題にとらわれ、たどり着けるか分からない答えをさがしています。「なぜ今ここに生きているのか」そんなことはわからんばい。といったらそれまでなんですけど、宗教はそれらを解決、または解消できる術を持っているんですね。宗教と聞いていつも頭に浮かぶのですが・・・先生は、「信じるものは救われる」という考え方をどう捉えていらっしゃいますか?(2年女子)
(「信じることができれば,それ自体が救いである.」と捉えています.)
- 「宗教は形而上学的問題の解答を与えてくれる『ことがある』」と聞いて、改めて、宗教とは何なのかという疑問が浮かんできました。
宗教を信仰している人の中には宗教によって救われた(と思われる)経験がありそれから宗教心が芽生えた人や、苦しい状況におかれているために心の拠り所として宗教に救いを求める人など、色々な境遇の人がいるはずです。他にも、赤ん坊の頃から自分の意思に関係なく信者として扱われている場合もあります。宗教は様々な信者を抱えているけれど、「神が試練を与えた」「運命だ」など、様々な問題に対して、解答の数は少ないようなので不思議です。
また、宗教の「開祖」と呼ばれる人というのはきっと、既存の宗教では救われなかった人なのではないかと思います。その人は自分を救ってくれるであろう考え方を生み出して、それを「みんなのために」なるようにしたのだと思います。「自分だけに都合のいいように」考えた人もいるかもしれません。様々な人がいるから宗教もたくさんあるんですね。何はともあれ、シッダールタがどのような過程を経て仏教の根本を見出していったのかとても気になります。(2年女子)
(「人の数だけ宗教がある」と言っても過言ではないかも知れません.それはなぜかと言うと... ←しばらくは皆さん各自で考えてみて下さい.)
- 解決と解消の違いが解りやすかったです。解消は、問題を抱えるその人自身の力が、より必要になる気がしました。神という絶対者の存在を通して解答に行き着くのと、仏教の教えの中で自ら解答にたどり着くのでは大きな違いがあります。どちらも解答にたどり着くので優劣は無いと思いますが、問題に対する捉え方一つをとっても個性があって面白いと思いました。
また、問題を解決・解消せず、あたかも解答を与えるかのように、騙して金を集めるような団体は本当に卑怯だと思いました。騙された人は損害を被る上に、本来あったはずの、問題へと立ち向かう力も奪われています。信仰の力は強いので、そういうものにひっかかってもなかなかベクトルを変えることが出来ません。しかし、その時に、ベクトルを変えられるような見方が、今回形而上学的問題への各宗教の態度を学んで、少しは養えたと思います。(2年女子)
(おおっ! これはグレイトな感想だ!! 先生は嬉しいぞ.)
【総評】個性的な感想,優秀な感想が多くてとても嬉しいです.皆さん次第で講義のノリも変わってきますからね.次回は仏教の開祖釈尊について詳しく見ていきましょう.(鈴木隆泰)
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