12月12日
安楽死について



A:今日のテーマは安楽死についてです。私は、生きることはもちろんですが、死についても興味を持った時期があります。私にとって死は何よりも一番怖いことで、TVで「あなたのためなら死ねる!」とか言うこともあるけどそんなことは絶対に信じられません。世の中には死より怖いことがあるだろうけど、それを経験したときに自分は安楽死を選ぶのだろうかということを考えてしまったりすることもあります。ではまず、死ぬということはどんなことだと思いますか?

E:怖いというより分からなくて、自分の生きているときの意思は死んだらどうなってしまうのかと考えるとキリがないので、途中で考えるのをやめてしまう。

H:死は怖くないが、死んだ後にどうなるのかということを、特に夜に考えたりしたときに怖くなる。

C:自分が死んだらと考えるとよく分からないが、自分の周りの人が突然死んで、今までいた人が急にいなくなると怖い。

B:身近な人が死ぬと、今までできていたことが出来なくなってしまうことは信じられなくて怖い。

E:死というと普通は歳をとってから寿命で死ぬというのだが、本当はいつ死んでもおかしくない。この前、すごく元気だった祖父が急に倒れて入院したんですけど、そういうのを目の当たりにすると、死ととなり合わせで生きているんだなぁと思う。

C:この夏に電車事故で友達が急に亡くなったことで死が自分にとって身近なものになった。

A:私も小学校のときに友達を亡くしたときによく死について考えたときがあった。

 ここで本題に入る前に―「安楽死」についての基礎知識 安楽死の定義・2つの安楽死(消極的・積極的安楽死)について・尊厳死について

A:皆さんの安楽死に対する印象はどんなものですか?

D:植物人間になっている人の延命治療をやめるのは安楽死ですか?

A:安楽死に入ります。

I:日本では消極的安楽死は認められているが、積極的安楽死は認められていない。

C:そもそも安楽死に本人の判断があるのかと思う。極限のところでその人の死を選択するのは結局家族で、本人の意思は分からないし、問うことも出来ない。

A:「もうこうなったら生きていく意味がない」という状況になったらどうしますか?安楽死にとらわれずに答えてください。

D:それは精神的に追い詰められてということですか?

A:いろんな場合がありますよね?

E:私は自殺はしたくありません。

I:でも自分から安楽死を望んだ場合は安楽死だよね?

A:そうですね。

E:自分は、もし生きていく意味がないと思っても、これから生きていば必ず何かいいことがあると考える。

I:自殺志願者に頑張れと言うのは禁句なんだよね。その人は頑張れといわれると、自殺したいというところまで追い詰められているのに、これ以上何を頑張れというんだ、まだ頑張らなければいけないのかと感じるだろう。日本語の「頑張れ」という言葉は少し残酷なんだ。例えば何かに失敗した人に「頑張れ」と言うとすると、その失敗したという責任は全てその人が負ってしまうことになる。それがもし自分の責任ではどうにもならないようなことであっても、その責任を負わなければいけないことになる。こういうことは間違っているんだ。これに対して「頑張れ」と言うと、いかにもその人が悪いという感じがするだろう。英語の場合は「Good luck!」だからね。神任せということになるんだ。

A:ではもし、身体的な苦痛はなく意識もあるんだけどコミュニケ−ションをとることができないという状況の人がいるとします。自分は第3者の立場にいるとして、どうしますか?その人はもう治らないという想定で。

B:それでも生きていて欲しいと思います。

F:もう絶対治らない場合なら安楽死して欲しいと思う。もし親がそういう状態になったら、そうまでして生きたくないだろうし、そんな自分を心配する子供たちを見るのもつらいと思う。

E:身体的な苦痛はなく意識もあるんだけどコミュニケ−ションをとることができないという状況が想像できない。

F:意識があるのなら目とかで意思表示ができるのでは?

A:植物状態の人って目を瞑っていても何か考えたり出来るのでしょうか?…植物状態ってどんな状態なんですか!?

 植物状態について―植物状態の人に意識はない。反射は起きるが感情で動くということはない。運動神経自体が死んでいるのなら反射も起きない。

A:では状況を変えましょう。全身麻痺で意識はあるけどコミュニケーションすることができない場合はどうでしょう?全身麻痺だから、身体的な苦痛はありますよね。

E:その人には体を自由に動かせない苦痛もあると思う。

 しばし沈黙…。

A:では少し話題を変えて、江戸時代に切腹した人の首を切り落とす「介錯」というのがあるんですけど、これは安楽死になるでしょうか?私は安楽死になると思うんです。

G:切腹した人がはやく死ねるようにというのなら、それは安楽死に入ると思う。なんか、楽に苦しまずにいけるように最後の一撃を与えているのだと思う。

D:介錯は切腹と同時にするのですか?

I:切腹というのは本来、まず腹を刺して横に引いてまた腹を刺して次は下に引いて、十文字に腹を切ることなんだ。そして介錯される。これが本来の切腹のあり方なんだけど、世襲制で武士になった人の中には、度胸がなく怖がってそれができない人がいた。そんな人の場合には、腹を刺したと同時に介錯していたみたいだね。

A:切腹だけではなかなか死ねないみたいなので、私は介錯も含めて刑罰なのかと思っていた。

F:それは違うと思う。刑罰なのは切腹だけであって、必要以上に苦しめる必要も特にないので、スムーズに終わらせるためにも介錯をするのだと思う。安楽死させるためでなく、そういうシステムとして。

E:楽にしてあげようというのが安楽死であるので、介錯はそれに入らない気がするので、安楽死ではないと思う。

J:私も介錯は安楽死ではないと思う。

A:では次に、ペット動物の安楽死というのはよくあるが、それはあってもいいのでしょうか?法律的なことは考えずに、自分の感情的にありだと思いますか?

K:ペットを飼った経験がないので、よく分からないです。

C:なしだと思います。

E:私もなしだと思うけど、ペットがすごく苦しそうだったら少しは考えるかもしれない。けれど、きっと最後まで自分のもとで見ていきたいと思う。

I:ペットがどんなに苦しんでいても?

E:なんか、安楽死を頼むと自分がそのペットを殺したみたいな感じがする。

I:自分が殺したという気持ちを背負いたくないから、どんなに苦しんでいても生かすの?

E:そうではないけれど…。

D:私はありだと思う。動物だから、人間が判断してあげなければならないと思う。

B:ペットが苦しんでいる姿を見ているこっちが耐えられない。

H:私の叔母さんのところで飼っていた猫が脳腫瘍を患ってすごく苦しんでいて、見ていてすごく痛々しかった。結局叔母さんは猫に安楽死させたんですけど、叔母さんはよかったと言っていた。だから私はペットの安楽死はありだと思う。

G:私もペットを飼ったことがないので詳しいことは分からないが、多分ペットはその家族の一員になってると思う。家族が苦しんでいるのは見るに耐えない。

I:人間は?人間の家族はどう?

G:人間だったらコミュニケーションがとれるじゃないですか、動物とはとれないから。

A:死に対するいろんな考えがあるが、やっぱり人間はいつでもどんなことに対しても安らぎを求めている。安楽死と尊厳死があるが、これを区別しているということは安楽死に尊厳はないのでしょうか?私はそうではないはずだと思うんですけど、皆さんはこのことに対してどう思いますか?

F:2つの違いは何ですか?

A苦しみから解放させるために意図的に死なせることが安楽死、人間の尊厳を保って死なせることが尊厳死。尊厳死は、安楽死を選ばずに死ぬということです。

I:人間の死というのは全て尊厳しなければいけないのだ。それが出来ない場合に安楽死がある。

A:安楽死を選んだ人は人間の尊厳なしに死んだのではないと思うのですが、どうでしょう?

E:人間として生きてきて、安楽死を選んで死んだとしても、人間として死ぬのだから尊厳はあると思う。

A:安楽死と尊厳死の区別は必要でしょうか?

E:区別は必要だと思う。しかし、安楽死を選んだから尊厳がどうのという問題ではない。

A:日本で安楽死が認められる日がくると思いますか?

F:なぜ海外では安楽死が認められているのですか?

I:現在、どの国で認められているのかというと…オランダが安楽死についての先進国のようだ。つづいてベルギー。

A:私は日本でも安楽死が出来ると思っていたが違った。自殺は安楽死ですよね!?

I:自殺全てが安楽死なわけではないが、安楽死に含まれるものもある。

A:死んだほうがましだという考え方に価値評価を認めてしまうと、そんな状況に追い込まれてもなお生きている人たちを否定していることになる。では、安楽死は認められるべきであると思いますか?私は認められるべきであると思います。

D:積極的安楽死もふくめてですか?

A:そうですね。状況によりますが。

H:認めてもいいと思う。自分がもしそういう状況に立たされたら、安楽死という選択枠をおいていてほしい。

A:逆に安楽死は認めないという方々はどうですか?

 しばし沈黙…。

A:この沈黙はいろんな場合があるので悩み中ということですかね…?

I:そもそも日本において、安楽死について議論できるかどうかに疑問を感じる。生と死は宗教上の問題である。それが合法化して政策になることもある。宗教の中には死は誰のものかという考えがある。個人のものか、それとも神のものか。個人のものであるとするなら、生きるも死ぬもその人の勝手であるが、神のものであるとするなら、勝手に命を処分してしまったりしてはいけないんだ。これは形而上学的問題である。その国の人がどのように考えてきたのかが問題だ。その宗教がうまく機能していない日本で、生死にかんする問題を議論することは出来ないであろう。命を左右してもよいかという問題であるから。結局結論は出ないので、政治判断に至るのである。また、結果だけでなくてそのプロセスも大切である。結果だけ見る社会は淋しい社会。しかし、どういうプロセスで考えるかというしっかりとした土台が日本には存在せず、安定していない。そんな上で議論なんて出来ない。私はそんな日本に対して危惧している。

A:今まで死について考えてきたが、皆さんは生まれ変わるということを信じますか?私は信じたいです。

I:私は信じています。死んで全てなくなるというのは恐怖です。信じたい。

A:輪廻ということですよね?

I:仏教の輪廻はあってもなくてもいいんだ。その人しだいで、輪廻がないほうがいい人はない、あるほうがいい人はある。わたしはあったほうがよいと思う。

A:じゃあ、もし生まれ変わったら何になりたいかというのも含めて答えてください。

B:人間以外になりたいです。例えば動物とか。

I:前世を考えることもあるよね!?

C:また人間に生まれたいです。女に。また自分がいいです。

D:輪廻があったらいいなと思う。けど、それでもまた「私」というものに生まれるんだろうなと思う。

E:輪廻があるのかは分からないけど、私は何か別な世界があると思っていて、そこで生きるのだと思う。

F:輪廻はないと思う。そして前世もないと思う。

G:考えたことはない。でも、もし輪廻があるなら植物でもなんでもいい。

H:輪廻があったらいいなと思う。生まれ変わったらまた人間になりたい。

J:私は生まれ変わったら男の子になりたいです。

A:あっ、私もです。死には怖いというイメージしかわかないけれど、今日のテーマを考えていると結局人間は、自分や他人の幸せや安らぎをいろんなところで求めていると思う。「安楽」死というのでもそうだ。じゃあ、最後に皆さんが幸せを感じるときというのを教えてください。どんな小さなことでもかまいません。

B:欲が満たされたとき。

C:眠る直前。

D:なんか寝る前は、起きたらまた明日が始まると思って結構憂鬱だったりするんですけど…幸せなのは夢を見ているときかな。

E:家族と笑って話しているとき。

F:僕も同じで、家族と話しているときです。

G:寒い日に熱いお風呂につかかったときにジワ〜っとくるかんじが幸せです。

H:昼寝しているとき。

J:私は親とずいぶん遠くに離れているから、親といるときです。

K:寝ているとき。

I:私も家族といるときです。家内や子供と会うことですね。あと、自分が寝転んでいる上に子供を乗せて、子供の重みを背骨で感じるときですね。この子たちが何歳になるまで耐えられるんだろうと考えたりします。

A:幸せを思い浮かべることが出来ること自体幸せなことだと思う。死というのは生きているものとして必ず経験しなければならないこと。これをテーマにすることによって、周りの人たちの事情がちょっと気にはなったが、1回くらいは考えることが必要だと思う。他人の気持ちを察して意思尊重することが大切。死や、それ以上に怖いことに直面したときに、人や知人を支えてあげられる力を持ちたいと考えた。

I:死は身近にいくらでもあるし、嫌だと思っても避けられない。死を恐れて生きていく必要はないが、死というものが身近にあるからこそきちんと生きなければいけないし、友人にも優しく接していかなければならない。それを考えるだけで死を考える意味があるのではないかと思う。


《編集後記》
安楽死を改めて難しい問題だと思った。死についてはあまり考えたことがなかったが、今日このテーマに沿ってあらためて考えてみた。やはり、自分にとって生きているということが幸せだと思う。最後にあった「死というものが身近にあるからこそきちんと生きなければいけないし、友人にも優しく接していかなければならない。」というのをこれから生きていくうえでの教訓にしていきたいです。(書記)


安楽死に限らず,“死”そのものが重いテーマで,十分中身のある演習になりました.どんな人でも老いや死からは逃れられません.当たり前のことですが,私たちはその事実の上に立って歩んでいくしかないのです.
ちなみに,今回も誰が私なのかすぐに分かってしまう内容になってしまいましたね (^^; それもまたよしとしましょう.

(鈴木隆泰)


基礎演習 II・IV

アジア文化論研究室

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