12/20 授業の感想11号と回答
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原文の一部を修正したものがあります.
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大乗仏教における「ことばとともに蘇る仏陀」,菩薩の観念について説明しました.今回は FF IX の曲もきちんとかけることができました.
- 浄土は仏陀の数だけあるということを初めて知りました。誰もが菩薩であるという大乗の教えは知っていましたが、人間以外もそうであるということは初めて知りました。インドの人々の輪廻に対する考え方や、釈尊に対する思いをよく知ることができそうなので、ジャータカを読んでみたいと思いました。(4年女子)
(ジャータカは面白いですよ.和訳全集も出版されていますから,パーリ語を読めなくても近づきやすくなりました.)
- 今まで極楽浄土以外に浄土があるとは知りませんでした。釈尊がこの世界が浄土だと言ったのは、この世界が浄土のようにあるべきだという願いからなんですね。それから先生のおっしゃる通り世の中たくさん人がいるのだからその数だけ宗教があってもおかしくないですね。そして所変われば、姿は変わる。なるほどです。ラストの音楽で、サビの部分はぐっときました。私が死のうとも君が生きている限り、命はどこまでも続くのですね。(3年女子)
(「娑婆=浄土」は,願いであるだけでなく,“浄土にしなくてはならない”という要請でもあります.)
- 在家型仏教は、教えを伝承するシステムも持たず、ただ釈尊を思うだけであって、仏教としては停止した状態だったのですか? ただ仏陀を崇めるだけで、自らが仏陀になれるという認識も、真理・教えを説くから仏陀であるという認識もなかったということですか?
早く日本の仏教について知りたいです。来年の講義を楽しみにしています。冬休みに自分でも調べてみます (^o^)/(2年女子)
(ご質問の件,その通りです.仏教のこと,興味を持って調べてみてください.)
- この授業を通して分かってきたことがあります。わたしは今まで一つの宗教にはひとつの教えがあって絶対にそれを守らねばならないと思っていました。しかし宗教というのはもっと自由で先生がおっしゃったように人の数だけ宗教があるんですね。一日一善ということわざのように少しでも誰かを助けることができたら、実践できる人になりたい。(2年女子)
(機会を見つけて実践してみましょう :-) )
- 困った人がいたら少しでもいいから手を延べる。それは本当に当たり前のことで誰にでもできること。そのようなできる範囲のことから私たちは仏陀に1歩近づけるんですね。もし終わり頃に時間があれば、先生の気に入っているジャータカの話をいくつかして欲しいです(^^)(2年女子)
(授業中に紹介する時間的余裕はないかも知れません.遠慮なく研究室にいらっしゃいな.)
- 出家僧院型は、釈尊の教えに反していて、一見悪いような感じがするけれども、この仏教徒たちが、仏陀とは教え(伝承)であると考えなければ、釈尊入滅後の仏教はなかったかもしれないというのは、面白いと思いました。(本当にこの解釈でいいのでしょうか…??)(2年女子)
(うーん,微妙に違いますね (^^; 出家僧院型は「仏教の一つのかたち」に過ぎず,それが「仏教の全てではない」ということです.ですから,出家僧院型の仏教だけが仏教だと考えるのは誤りなのです.でも,彼らが「自分たちの仏教」を伝承してくれていなければ「仏教はそれ以上である」ということすら分からないままに,仏教は雲散霧消していた可能性があるのです.)
- 宗教が形を変えながら存在し続けるというのは当たり前という気がします。時間が経ったり、周りの状況が違ってきたり、そういう変化する環境の中で宗教だけが昔のままというわけには行かないと思います。ただ、変化を堕落と取るか、進歩ととるかというのは宗教によって違うのだと思うのですが。例えばキリスト教をはじめ、中心となる神がいる場合、全知全能の神の定める基準がころころ変わっていいのか、というような疑問が生じると思います(キリスト教も変化の中で、今まで生き残ってきたとは思うのですが)。仏教の場合、処方箋はいろいろというのがあって、ひとつの教義というのを定めてはいませんよね。その点の違いから変化しているということの意味づけが変わってくるのではないかと思うのですが。(3年女子)
(その通りです.「変化」に対する態度が,仏教とキリスト教などとでは全く異ります.特に,変化を異としない仏教では「いかなる変化なのか」「その変化は仏教として適切か」が重要となります.)
- 「小乗仏教は大乗仏教ではない仏教と同じではない」ということでしたが、それは、大乗仏教でない仏教の中にはいっさい含まれないということですよね?もしそうだとしたら、仏教を大きく分けると、大乗仏教、小乗仏教、大乗ではない仏教(大乗でも小乗でもない仏教?)があるということなのでしょうか?それと、男性名詞が多いなかで、なぜ国は女性名詞なのでしょうか?わたしは、授業の回を重ねるごとに、仏教がこんなに柔軟性があって、現代にも共通する思想を持った宗教であること気づいてに驚いています。なんとなく古臭くて、しきたりなどに固執しているイメージがありました。先生の授業が仏教というイメージとは全く違って、新しい切り口のものだからなのかなあと思いました。それと、クラゲのはなしがおもしろかったので、またあのような話をしてほしいです!!(2年女子)
(小乗仏教は,大乗仏教の中にも非大乗仏教の中にも見られます.なぜなら,厳密に言うと,ある仏教が大乗であるか否かは,その仏教が大乗を名乗っているかどうかに依るからなのです.ですから,自称大乗であっても,その中身は「劣った乗り物=小乗」の場合もあるわけです.ただし,余り厳密に言ってしまうと分かりにくくなってしまいそうなので,この講義では
・大乗=中身も大乗であるもののみ.自称大乗を除く.
・非大乗=大乗でもなく小乗でもないもの
・小乗=劣った教え
と区分してみたのです.)
- 3種の仏教徒のところで、型は違ってもお互いが対立している訳ではないということを言われていましたが、その時にふと、そういえば仏教の間での宗教的対立はあまり聞いたことがないなと思いました。(他の宗教に比べて)やはりそれは、処方箋は人それぞれ違うという仏教の基本的な考えかたが影響しているんだと思います。(2年女子)
(よく見てみると決して皆無ではないのですが,キリスト教やイスラームなどのような大規模なものはやはりないと言ってもよいでしょう.)
- 出家森林型についてですが、釈尊を模倣することによってサンスカーラは発生しなかったのでしょうか。あと、500年の時を越えて処方箋の再発行が行われだしたことについてですが、やはり誰かがこつこつしていたのだと思います。私自身、海岸のごみ拾いをしていてつくづく思ったのですが、こつこつやれば全体に広がっていくと。誰かが行動を起こしていないと、500年後に突然広まるなんてありえないと思います。今日は曲が全部無事に聞けてうれしかったです。先日楽器屋さんで楽譜を見たら、この曲の楽譜がありましたよ。ピアノでしっとり弾き語り...っていうのもいいですね♪(2年女子)
(「釈尊の模倣」は,善きサンスカーラの発動の典型例でしょう.)
- 大乗仏教の誰もが菩薩であり、誰でも仏陀になれるという考えはとてもよいと思います。私は、どんなに頑張って修行をしても仏陀にはなれないというのと修行を積めば仏陀になれるというのとでは、修行への力の入り方も仏教への思いも違うのではないかと思うので。まあ、どの部派を選択するかはその人次第といえばそれまでなんですけど…。もし自分が(1)出家僧院型,(2)出家森林型,(3)在家型,のどれかを選べと言われたら、仏陀になれるという希望が持てる(2)を選ぶでしょうね。(2年女子)
(誰も「選べ」とは言いません.自主的に選択するのです.)
- 釈尊が入滅してから色々な型に分かれていったというのは他の宗教にはあまりみられないのではないかと思いました。出家森林型の釈尊をまねぶという考え方はわかるような気がしました。でも、出家僧院型というのは結構釈尊の考え方と変わってきているというのが不思議です。それについて彼らは哲学議論をしているわけですよね。(2年女子)
(解脱に結びつかない形而上学的議論は,仏教においては,いついかなる時でも放棄されます.哲学議論が解脱へと結びついている限り,その議論は正しい処方箋として機能しています.大事なところはそこです.)
- ことばそのものは、単なる音声あるいは記号(文字)の羅列でしかないけれど、それを「生きた」ものにするのは、やっぱり聞く者ではないかと思います。どんな素晴らしい真理や処方箋でも、その音声・記号を理解しなければ意味はない。必死で(かどうかは知らないけれど)釈尊のことばをひもとこうとした出家僧院型の行動は理解できるように思います。(3年女子)
(「聴く者」も大事ですが,出家修行者がそれだけに終始しては不十分です.やはり「説く者」にもならなくては.)
- 自分が考えていた宗教という枠組みが、毎回講義を聞くたびにどんどん道が広がっているのですごく新鮮です。今までこれほどまで仏教について学んだことはもちろんないし、ここまで多くの考え方が出来るものだとは思ってなかったので、頑張って理解していきたいです。また面白い話聞かせてください。(2年女子)
(まかせて!! (^^) )
- 授業とはあんまり関係ないかもしれないのですが、もうじき大晦日で除夜の鐘が鳴らされますよね。村上龍の小説の中で、「人間の煩悩は細かく分けると108種類あり、鐘をその回数鳴らすことによって聞いた人全ては煩悩から解放される」というような記述があった気がしたのですが、108種類の煩悩とはどんなものなんでしょうか?これについて記述されているお薦めの本とかありましたら是非紹介して欲しいです。また、この煩悩という考えは宗派に関係なく仏教全てにある考え方なんでしょうか?私は煩悩だらけだから^^今年は家でじっとして、または直に聞きにいって、心を研ぎ澄ませたいと思います。(4年女子)
(仏教の基本的なタームや概念について知りたいときは,『仏教辞典』を参照するのが一番です.授業中にも紹介しましたよ.
大晦日から元旦へ向かうあたりの風情は何とも言えず好きです.)
- 正直仏教といえば、宗教の一つでなんだか堅苦しくまた、近づきにくく感じていた部分があったのですが、先生の授業を聞いていくたびに奥が深く興味がわいてきます。そして普段の何気ない生活の中にも関わっているのだなと、また改めて感じました。もっといろんな話が聞きたいです。(2年女子)
(残念ながら,半期の講義だけではやはりお話しできる内容も限られてしまいます (;_;) )
- 今日の“誰もが菩薩である”“良い処方箋を出してくれる人は皆仏陀である”という教えは心にしみました。何だか身近に仏陀の存在を感じました。
今日は歌が聞けてよかったです(*^-^*) この間はうまくかからなかったけど、今年最後の講義というのにふさわしく、今日かかってよかったと思いました。1月からの授業も楽しみにしています!よいお年をお迎え下さい!(2年女子)
(あなたもよいお年を!! )
- やっぱり仏教は他の宗教とはちょっとちがう。信仰の仕方がすごく自由で、私は仏教向きだな思いました。でも、解釈のしかたが十人十色自由だからこそ、先人はこんなにも苦労してきたのでしょうね。自由は場合によっては拘束よりも人を悩ませるものだと思います。(2年女子)
(たしかにそういうこともありますね.「唯一絶対の神を信じろ」「神だけが真理だ」という“命令型”の宗教の方がよいという人もいるでしょう.逆に,「自分の好きな方法でリンゴを食べればよい」という“自主的,自発型”の宗教が合う人もいます.)
- くらげのお話は初めて聞きました。骨のあるくらげはどんな感じだったのか実際に見てみたかったです。釈尊の死後、どのようにして仏教が今日まで続いているのかがよくわかりました。教えや真理はもちろん大切ですが、それをどのようにして、伝えていくか、それも非常に大事なことなのだなと思いました。今年も大変お世話になりました。来年の講義も楽しみにしています。(2年男子)
(くらげの話を気に入ってくれた方が多いようですね.ちなみにジャータカではくらげではなくワニです.日本でも有名な「くらげ骨なし」のモチーフがインドから伝わってきていることをお知らせしたかったので,このお話をしたのです.)
- (1)の出家僧院型では釈尊一仏ということですが、柔軟な仏教で、そういうことは間違っているのではないかと思いましたが、どうですか?(2年女子)
(釈尊一仏としっかり信じて歩んでいければそれでよいのです.硬直してしまうのは駄目ですが,「そのリンゴの食べ方は間違っている」と,他の人が決めつけるのも駄目です.)
- 釈尊の死後の仏教が3つの種類に分かれたというのはどのような経緯でおこったのですか?他の地域に伝わっていく過程で変化したのですか?それとも釈尊の教えをそれぞれの方法で解釈し、同じような考えの人たちが集まったのですか?あと、クラゲの絵が可愛かったです☆(2年女子)
(骨のあるクラゲ... ほとんどイカでしたね.
仏教に種々の類型があることは,仏教という宗教が持っている性格からの,当然の帰結です.)
- 釈尊の入滅後、仏教徒のあり方が3つの型に分かれて存在していたということでした。ただただ仏教を確立しようとする、頭だけの出家僧院型、あまり深くはわかってなく、ただ仏陀を思うだけの在家型、そして釈尊の考えが伝わっている出家森林型です。このような状況っていうのは、政治や社会にもいえることではないかなと思いました。偉い人がいて、国民がいて、正しい道を説く人がいて。そう考えると、当時一番多かったのは在家型仏教だったのでしょうか?(2年女子)
(数についてはよく分かっていないんですよ.あなたの指摘するような状況であったとしてもおかしくはないです.)
- 誰もが菩薩であるという自覚を持とうとする大乗仏教にとても関心を持ちました。真理, 教えを説く事の中に仏陀の本質が存在する、仏陀はことばとして蘇えるという思想になんとなく共感できるようになりました。ことばというものの本質やそれの力について考えてみようと思います。お正月には先祖のお墓を拝んでおこうと思います。(2年女子)
( (^_^) )
- 出家森林型/遊行型の考え方を基盤とし、出家僧院型と在家型仏教の一部を合流させてできたのが大乗仏教であるということが分かった。仏教にも色々な宗派があると思うけど、大乗仏教が釈尊の考える仏教に一番近いと思った。ところで、この時代は家単位で仏教が受け継がれていたのでしょうか?例えば在家派の家で生まれたら、大乗仏教の考え方が好きでもそれに移ることはできなかったのですか?(2年女子)
(家単位の仏教は,東アジアの一部の国の専売特許です.自ら処方箋を選んでこその仏教です.ただ,その家に生まれついた縁に因って特定の宗派を信じるということまで否定する必要はないかも知れません.要は,「処方箋としてきちんと機能しているかどうか」です.)
- 大乗仏教と小乗仏教は対を成すものではないとおっしってていましたが、最新鋭の医療をしてくれる大乗と古い役に立たない処方箋をくれる小乗仏教は逆の存在ではないのですか?(2年女子)
(そういう意味ではその通りです.私は,「大乗でないもの=小乗」ではないぞ,ということをお伝えしたかったのです.)
- 釈尊の死後、仏教徒が3つに分かれたということでしたが、なんだか面白いなと思いました。また、本当にどんな人でも仏陀になれるのでしょうか?(2年女子)
(その答えはそろそろ自分で導き出せるようになってください.)
- 日本のお坊さん方は皆出家しているのですか?でも、かなり俗世間とかかわりを持っているし...(2年女子)
(インド的な意味で,すなわち,元来の意味で出家している僧侶は日本には少ないです.処方箋が変わる以上,出家の仕方も変わって当然なのです.でも,そのことに自覚的であるかどうかは...)
- 誰もが菩薩である"という考え方は結構印象的でした!先生も言われていましたが、仏陀が100できたことを自分も100できなければならないのではなく、たとえ1でもいいから努力することが大事なんだと今更ながら思いました。何もしなければ結局0(ゼロ)で終わってしまうもんなぁ、とつくづく感じました。就職活動もこんな感じでがんばろうとます!ちなみにくらげは大嫌いです!アイツに刺されなくてすむ良い方法を教えてください!(3年男子)
(...海に行かないこと(ぼそ)...(^_^;;; )
- もう年末ですね。クリスマスにケーキを食べて、大晦日に除夜の鐘を聞いて煩悩を払いながら向かう先は神社・・・という人が日本では一番多いのではないでしょうか。私も実家は浄土真宗だったと思うけど、クリスマスに浮かれ(人にプレゼントをする口実があると嬉しいv自分ももらえるしvv)、お正月に行くのは神社。私自身は信仰と呼べる信仰をまだもたないので構わないかな?という気もするけど・・・もしかして、日本人って神道にしても仏教にしても信仰の対象がキリスト教やイスラームと違って一人じゃないから、信仰(宗教)に関しても、一般の人はすごく間口が広い(悪く言うといい加減、よく言うと心が広い)のかな?
まぁ、年末から新年にかけてのすごし方は皆さんそれぞれでしょうが、風邪を引かないように気をつけて、良いお年をお迎えください。
2003年が貴方にとって幸多き年となりますように!(2年女子)
(私も早く家に帰りたい... (;o;) )
- この授業を受けるたびに、日本の仏教は形骸化していると感じる。死んでからでさえ戒名でごたごた…。お金を積めばよい戒名がもらえるってのは…。でも、それぞれの開祖たちは、釈尊のことを自分たちなりに理解しようとしたのでしょうね。これも形を変えて釈尊が生きているということなのだろうか。あ、クラゲっていいですよね、美味しいし。…綺麗だし。(2年女子)
(前も書きましたが,戒名(法名や法号とも言う)は仏弟子となった証として,本来は生前にもらっておくべきものなのです.ですが実際には生前の,仏弟子としての修行が不十分であったために名前がもらえず,死んだときに駆け込みでもらい受けているのが現状です.生前に積めなかった分の功徳を,本人にかわって遺族が一気に埋め合わせるのですから,財施(財物・お金を布施する)をもって行なうのが通常です.もしそれが嫌なら払わなければよいのです.
どうですか? 現在の戒名制度の運用に,全く問題がないとは私も言いません.でも,それを仏教側のせいだけにするのは偏った見方だと思います.)
- クラゲの骨なしの話を聞いて、亀バージョンを思い出しました。
たしか亀は怒られて甲羅を殴られた。だから亀の甲羅にはヒビが入っているのだ・・・・とかいう感じだったと思うのですが、私はどっちかと言うとクラゲの話の方が好きです。
確か話の最初にクラゲはタコのことを「え〜お前骨がないなんて変なの!!」とか言って苛めていたと思います。なのに最後は自分も骨なしになってしまう・・・。
なんだかすごく教訓的な話だなぁ〜と思った印象があります。実は仏教に通じていたんですね!!(2年女子)
(ジャータカは民間に伝承されていた説話の集大成という性格を持っていますからね.必ずしも全てが「仏教的」とは限らないのです.)
- 処方箋としての仏教の意味がわかってきました。誰もが菩薩になれるというのは、すべての人が多かれ少なかれ問題を抱えていて、それを助けること、また助けられることの大切さを考え少しずつ前に進むということだと感じました。この柔軟性、好きです。(4年男子)
( (^^) )
- 誰もが菩薩になれる!私は自分に人の助けになるような教えを出せるとは思っていなくて、自信がなかったけれど、良いことを言おうと思わずに、まずはこの人の心を少しでも軽くしたい!と思うことからなんだと気付きました。(3年女子)
(実践してみましょう :-) )
- 今年は、いきなり仏教についての知識が増えた気がします。来年もよろしくお願いします。(2年女子)
(こちらこそよろしくお願いします.)
- 大乗仏教の基本的な教えが"誰もが菩薩である"という自覚というのにとても興味を持ちました。私でも菩薩になれるのでしょうか(^^ゞまた、仏陀の教えに一番近い大乗仏教が出てきたのも、出家僧院型や在家型仏教という他のものがあったからこそ、というのも印象的でした。いろんな考えがあってこそ正解も導かれるものだという感じがしました。小乗仏教が大乗仏教の蔑称というのは知っていましたが詳しい内容については初めて知りました。ところで小乗仏教と上座部仏教はイコールのものですか?別のものであるなら、どう違うのでしょうか?(2年女子)
(上座部仏教は非大乗仏教です.小乗仏教は自分のことしか顧ない“劣った乗り物”で,自称大乗仏教の中にも,非大乗仏教の中にも存在します.)
- “誰もが菩薩である”という言葉は人に希望を与えるし、自分の出来ることから始めるという考えも好きです。後期に入り仏教を学んでみて、例年とは少し違った年末年始になりそうです。(2年女子)
(それは何より (^^) )
- 「あなたは夢をみているだけだ。夢から覚め、私たちのように真実の世界に生きなさい」というような言葉が、「宗教」を象徴するものだと私は思っています。しかし、「あなたは夢をみているだけ」なら、「私たち」が生きる「現実」もまた、もう一つの「夢」に過ぎないだろう。“誰もが菩薩である”とか“人の数だけ仏教がある”といった言葉が意味するのは、すべてを超越した価値(絶対的価値)の否定である、と思いますが、その意味で、仏教は本来的に(少なくとも釈尊において)は「宗教」ではない、と私は思います。(4年男子)
(ともかく,あなたの宗教定義に従えば仏教は宗教ではないのですね.内容はよく理解できないのですが,そのことだけは何とか分かりました.ちなみに「宗教」ということばは元来仏教用語です.)
- 大乗仏教の「誰もが菩薩である」ということばを知り、何だか気持ちが楽になったような気がしました。私は無意識のうちに自分自身の像を漠然と描いてしまっていたからです。また、今の行動が真実と捉えることが出来たなら自分という枠を取り外せそうな気がします。(2年女子)
(サンスカーラの無常さを実感できましたか? )
- 人の数だけ仏教がある、という言葉を聞いたとき、思わず金子みすずの「みんな違ってみんな良い」というフレーズが頭の中に流れました。それはともかく、私たちの生活の中に釈尊の教えや思想は染み付いていることがわかりました。私は今までどっちかというと宗教は好きではありませんでしたが自分自身知らないうちに生活の中で関わっていることを思い知らされました。(2年男子)
(日本人と仏教との結びつきは,日本人が自覚している以上に密接なものなのです.)
- 今回、大乗仏教の「誰もが菩薩である」という考え方がとても印象的でした。なんだか少し励まされたような気がしました。最近うまくいかないことが多いけど、くじけず自分の方法でがんばっていこうと思いました。(2年女子)
(周囲の人や書籍等から受けられる助言も有効なときがあります.その助言が「有効な処方箋」であれば,その人や書籍は,あなたにとって仏陀・菩薩だったのです.)
- 同じ仏教でも、型によって教えや仏教そのものに対する考え方が違っていたので意外でした。でも、「教えによって、人々が目標に到達するよう背中を押してあげる」という点で、根本的には同じなんだなと感じました。(2年女子)
(仏教はその姿が変わっても,「誰かにとっての有効な処方箋」ということは変わりません.)
- 今回の講義は、これまでのまとめで、復習にもなり分かりやすかったです。『クラゲ骨無し』の話はとても面白く、一人で受けていました(笑) 日本の仏教はまだ真理・教え・処方箋が再発行されていない状態にあると言われましたが、日本の仏教は偽者だということですか?(3年女子)
(奈良時代までの仏教(最澄や空海以前の仏教)は国家主導で,一般民衆に処方箋を出すはたらきを十分にしていなかった,ということを申し上げたかったのです.)
- 仏教も結局は何種類かに別れてしまったと言うことなんですけども、それが望まれた姿というわけだったようです。過程にとらわれずに結果を目的にするということは、その宗教にとって個人の自由がそれだけ増える事なので、目的を達成するための方法は当然増え、様々な型が生まれてきたのでしょう。こういった分裂は宗教に限らず様々な思想に対して起こる事で、結局は個人の受け取り方が問題になっていて、そのどれもが仏教ということなんでしょう。(2年男子)
(過程にはとらわれませんが,過程こそが最も大切なものなんです.そこはきちんと理解できていますか? )
- 今年はこの授業の中で出てきた言葉や教えで、何か自分のなかでモヤモヤとしていたものが幾分スッキリしたような気がします。おかげでよいお正月を迎えられそうです。(2年女子)
(それはよかったですね (^^) )
- 大乗仏教では 誰もが菩薩であるという考えであることを聞いて これはまさに釈尊のいう 人はそれぞれリンゴの食べる方法が違うという考えに直結するんだろうなと思った。自分自身が菩薩になれるのなら 自分流のリンゴの食べ方が生み出されると思う。だから 小乗仏教よりも より釈尊の考え方に近い大乗仏教の方が先に生まれたのだろう。(2年女子)
(むむっ,このあたりは学界の最先端分野とも関係があります.小乗と大乗,どちらが先なのか.うーむ,難しい...)
- 大乗仏教における、教えを与える方も与えられる方も仏陀に近づくという思想に、“教え”が仲立ちとなり両者はつながっており、たとえ釈尊のように覚りを得た特別な者でなくてもすべての人は与えることができるし、与えられることもできるという懐の広さと平等性を感じ、深く共感しました。(2年女子)
(おおっ,これはグレイトな感想だ!! 「教えが仲立ちとなり両者がつながっている」ことに気づくとは!!)
- 私がもし仏教徒だったら、出家森林型のやり方で修行したいと思いました。りんごへの道は確かに人それぞれで自由だけど、森林の中で修行するのがなんとなく釈尊のやり方に近い気がするからです。あと、今日の授業で面白かったのはクラゲの話と、誰でも仏陀だという話です。クラゲの話はおかしくて、特にサルが肝を洗って干しているっと言ったところがたまらなく好きです。あと、「仏陀は100できる。でも1ぐらいでもできればいいじゃないか。手をさしのべられればいい」というところが好きです。何もしてあげないよりも、少しでも誰かの助けになれればそれはすごくいいことだと思いました。あと、「シャバの空気はうまい」の「シャバ」は仏教の Sahaa からきてるんですか?「この世」と訳してたのでそうなのかなーと思いました。(3年女子)
(ご名答.娑婆はサハー Sahaa (堪え忍ぶ場所) に由来しています.「堪え忍ぶ場所」「穢土(えど)」なので,そんなに「空気のうまい場所」じゃないんですけどね.でも,その娑婆を浄土としていたのが釈尊です.この娑婆世界を浄土とするも穢土とするも,結局は私たち次第なのです.)
- 「人の数だけ仏教がある」という点に妙に納得してしまいました。人の数だけ人生がある、人の数だけ哲学があるなんてよく言うけれど、その“人”が“私”でないからこそ、またどこまでいっても他者にすぎないのであるからこそ、その他者は尊重されるべきであり、「人の数だけの仏教」の存在は自明であると思います。(‥すると、人間世界がそのような関係性にあるのであれば、結局他者に対して見栄を張ったり威張ったりするなんてことは無意味な行為で、まずは他者でない自身が自身のありのままを認めないと何も始まらないのではないだろうか‥?) そして今、自身の心は(神道であるにもかかわらず!?)もっと菩薩に近づいてみたいという想いでいっぱいです。もし仏陀の言う浄土がこの世にあるとすれば、それはきっと林檎を一生懸命得ようとする人間の本質にこそ存在する、創りあげられていくものなのではないでしょうか。 もっと勉強したい。もっと考えてみたい。でも決して驕りたくない、満足したくない‥。自身がどこまで、どのように変化していくのか、この仏教文化とつき合いながら、ありのままを観察していきたいと考えています。(2年女子)
(よーし,一緒に勉強していこうじゃないか.ついて来いよ!! )
【総評】皆さん,よいお年を.年が明けてからはいよいよ日本の仏教に入ります.(鈴木隆泰)
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