11/29 授業の感想8号と回答
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中道・空を説明した後,ついに釈尊の遺言
vayadhammaa sa.mkhaaraa appamaadena sampaadetha
に至りました.
- 釈尊の遺言に 釈尊の説く全てのことが入ってるということで,“諸行無常”という概念がいかに重要かが分かる。よく考えたら、私を取り巻く全てのものがサンスカーラで もしかしたら 私自身もサンスカーラであるのかも知れない。 いま 頭の中で考えている自分はもしかしたら 本当の自分ではないかもしれない。 真実とは一体何なのだろう。 それを識別するには どうしたらいいのだろう。今日の授業は本当に奥の深い話だった。(2年女子)
(形而上学で悩むより,「時は歩み続ける今のみ」です.)
- 今日の中道の講義は、とても感動しました。でもこの話は、もっと早くに聞いておきたかったなあと思いました。(2年女子)
(いつ聴いても遅くはないはず.「今のみ」ですから.)
- チョークの話で、2本のチョークのあるがままの姿「空」に対して、様々な付加価値をつけることによって、ただのチョークだったのが、短いチョークと長いチョークになって、その付与されたもののために、このチョークは短いからゴミ箱に捨てようというふうになるという話しを聞いて、なるほど!と思いました。確かに、相対的価値を加えることによって、物事を明確にとらえることができる反面、そのもの自身のもともとある姿からは遠のいていき、いつのまにか誤った方向にいっているのだなあと思いました。 そういえば、前回とその前の出席を出し忘れてしまって、すごくくやしいです。仏教が終わった後、2階のパソコン室は授業があるので使えなかったので、昼の授業が終わった後出そうと思いつつ、そのまますっかり忘れ去ってしまって、結局出すのを忘れてしまいました。今日は、C館にパソコン室があるのを思い出して、授業後すぐに出席を出しに来ました!やっぱり、メールの出席はつらいです・・・・。(2年女子)
(「つらい」理由が,直接的には,「忘れ去って」「思い出して」というのはどんなものでしょうか.たしかに,この掲示板を「ただの出欠確認」だと思う人には面倒かも知れないですね.でも,別様に思うことはあなたには無理ですか?)
- 物事は空であるから中道に接するべきである。頭では理解しても、そう行動することはとても難しいと思います。特に日本は人を比べて判断する社会なので、物事をありのままに見る空の状態にないと思うので…。でもこれからの社会が物事は空なんだ、それで人は判断できない・しないという流れになれば良いですよね。けれど人は何事にもサンスカーラを発動させます、そう考えるとやはり社会が変わっていくのは難しいですかね…。(2年女子)
(社会云々より,まずあなたが変わればいいのではないでしょうか.)
- 中観哲学は中道と中庸を仏教の中心にすえた龍樹が考え出したもの(?)ということですが、中道と中庸は全く違うものなのにその二つが中心になり得るのですか?(2年女子)
(誤解です.中観哲学は龍樹を創始者とし,空・中道をその中心に据えた仏教です.中庸は全く関係ありません.)
- 今日は質問が2つあります。1つは、比較すること自体がサンスカーラなのですか?2つ目は、空についてです。私自身空についてまだ良く理解しきれていないのですが(特に「欠けている」という意味が)、もともとモノは空であるということですが、なにもないからっぽの状態、を空というのですか?それとも、サンスカーラの付いていない状態を空というのですか?空は0%なのですか、100%なのですか?(2年女子)
([1つめ] 比較して,比較対象にさまざまな価値を付加していくことがサンスカーラです.比較そのもの(長い・短い)が悪いといっているのではありません.もっとも,比較自体が相対的な行為であることは常に自覚しておく必要はあります.
[2つめ] ものは,人が価値判断しようがしまいが,それ以前から存在しています.要らざる価値判断が本来ないもの,それが空の状態です.ものの存在の否定ではありません.)
- 中道に関することで、「ある分野における能力のあるなしはその人の価値と相関しない」という言葉にはっとさせられました。この言葉と説明を聞いて、私も無意識にいろいろな人に対してサンスカーラの妄想しているのではないかと自分自身を振り返りました。これからは相対的価値による判断はサンスカーラであり無意味なことだということを心に留めておこうと思います。今回の授業でこれまでの自分の考えを振り返り反省できてよかったと思いました。(2年女子)
(過去を反省して学べてよかったですね.)
- 仏教で目指すものは心の平安を得ることだと習いました。それなのに、誰かを殺すことは悪いことだと今日先生はおっしゃいました。たとえば、誰かを殺すことによって初めて心の平安が得られた人がいるとします。この人のやったことは間違っているのか否か。仏教における悪というのはりんごに向かうことを続けることだったり、涅槃を目指したりですが、その際他人はどういう位置にあるのかしら?(3年女子)
(仏教者としての生き方の基本である〈五戒〉に「不殺生」が入っていますから,仏教から見てその人のやったことは間違っています.
と,「宗教的」「仏教的」に言うならば,これが答えです.「よい」「悪い」に理屈はありません.それが宗教というものだからです.でも,ここでは「学問」としての立場,「論理的整合性」の立場からもう少しこの問題を扱ってみましょう.
「人を殺す」ことは通常「心の平安」とは結びつかないはずです.それが結びついているのなら,その結びつきに問題が,そしてその結びつきを生み出したものに問題があります.それが解決されない限り,その人の平安は一過性のものとなり,次々に人を殺める殺人鬼となるしかないでしょう.
でも,その問題が解決されないうちは殺人を放置しておくというのでは,毒矢に射抜かれたのに抜かないままでいるのと何ら変わりがありません.多少強行でも殺人をやめさせて,それから矢を抜いていくべきだと思います.)
- 相対的に見ることでそのものの本質を見失ってしまう事は確かにあると思います。ただ、相対的に見ることで自分の事がよく分かったり、その差によって発奮したりする事もあります。「所詮、相対的価値」、「所詮、相対的価値」、と悪者のように言うのは何か嫌な気がしました。チョークは短くなる一方ですが、人間は伸びる事が出きるので、短いなら伸びるように助ける事を考えたほうがいいと思いました。(2年男子)
(「相対的価値」が「絶対的な意味を持っている」かのように錯覚されることが多いので「所詮,相対的価値」という言い回しを使ったのです.
「短いなら伸びるように助ける」とのことですが,結局あなたは「短いものより長いものの方がよい」「足が遅いより速い方がよい」「頭が悪いより良い方がよい」と考えているわけです.もちろん,足は速いことに,頭は良いことに越したことはないでしょう.でも,どんなに努力しても変えられないことも世の中にはあるのです.「足の遅い人は遅いままで,頭の悪い人は悪いままで,今,そのままで幸せになれるんだ」ということに気づかなければ,一生ないものねだりで終わってしまうこともあるのです.)
- 空と中道についてセットで説明されたので分かりやすかったです。人間は物事に相対的な価値を見出すから「文化」というものを生んだのだろうなと思った一方、あるがままに見るのが難しいから「差別」があるんだと思います。今日の朝、起きたときにふと「この宇宙で何も無い状態ってありえるのかな?」といきなり疑問に思ったことを授業に出てなぜか「空」という字を見て思い出しました。先生は何もない状態って有り得ると思われますか?(2年女子)
(現代科学によれば,何もないはずの空間においても,常に物質と反物質とが生滅を繰り返しているそうな. でも,あなたの質問の意図は別のところにありますか?)
- 正しい認識、正しい判断というのは、「あるがままにとらえる」ことなのでしょうか?そして、正しい行動とは、いったいどういうものなのですか?正しいとは誰が判断することなのですか?(3年女子)
(「正しい認識」=「サンスカーラを離れてあるがままに捉える」です.そしてその後,その正しい認識に基づいて,正しい判断が行われ,結果,正しい行動に結びつきます.
正しい行動とは,対象が本来持っている価値を十分引き出せる行動です.その判断は,本当は信頼できるお師匠さんに見てもらうのが一番です.)
- 私も一つの価値基準だけで判断してしまうことがあります。自分に余裕が無いときはほかの価値を受け入れられなかったり…。思い込んでしまうのは仕方のないことだと思います。中道や空の考えを知ったうえで、サンスカーラとうまく付き合っていくのも大事なのではないかと思いました。(2年女子)
(それはそうですよ.完全にサンスカーラを脱却できたら成仏できてしまいます.)
- 世の中にあふれている多くの価値基準。私はたった一つの価値基準にとらわれて判断してしまう癖がある。しかしそれにとらわれて自分に劣等感を感じたりするほど馬鹿げたものはない。何でこんなに当たり前のことがわからなくなってたんだろう…。今日は自分について考え直すことが出来たと思う。すごく良いことを聞いて、得した気分です。(2年女子)
(「分かっちゃいるけどやめられない」のが人間.かく言う私もしばしばこの罠に落ちています.そんなとき,誰かにちょっと指摘してもらえるだけで,世界がぱっと元通りになることってありませんか? 私なんかしょっちゅうです.)
- 今日の中道の話はとても身近に感じました。物事を相対的に見てそれを絶対的だと思っている人は確かに多く存在していると思います。特に学校では最近絶対評価にかわったものの成績や偏差値などにあらわれていますよね。ある分野における能力は、その人の価値には関係ないというところがとても印象に残った授業でした。(2年女子)
(当たり前のことなんですけど,結構見落とされがちなんです.)
- 確かに私たちが生きる社会の中には、何かと比べたことに過ぎない相対的価値からその人全ての人格を判断されることが多いなと思いました。そこにあるのは単なる事実であるのに、無いものを創り出すサンスカーラの発動によって付与された価値に捉われ正しい判断を下せない事態が起こっているのがよくわかりました。それはまさにその人が水(=付与された価値)を含んだ服を着せられているようだと思いました。(2年女子)
(みんな「水ぶくれ」なわけです.)
- 成績や能力などの価値が相対的であるなら、本当の価値というものをどこに見出せばよいのかがよくわかりませんでした。価値という基準自体が個々人で違うのにも関わらず、正しい認識という判断基準が理解できません。今日は授業中30分ほど意識が飛んでいたので見当違いな質問ならごめんなさい。いつも結果報告で叱られるので先に謝っておきます。(2年女子)
( (^_^;;
ものはそのものとして,人はその人として,ただそれ自身だけで価値があるものなのに,何らかの「虚構された価値基準」を押しつけて,それで判断してしまう,仏教が断じているのはそのようなことです.)
- 相対的にものを見て比べる過程にもサンスカーラが生じることはあるんでしょうか?(2年女子)
(その行為自体がサンスカーラに基づくものです.)
- 私は昔から人と比べられるのが大嫌いで、でも自分と人を自ら比べている自分がいて、悩まされていました。正しい判断に基づく行動ができるようになりたいし、まわりにもしてほしいと思いました。釈尊はそれができていたのですか。だんだん仏教にはまってきました。(2年女子)
(釈尊は,自らはサンスカーラのない澄んだ目で世界を観察し,正しい判断・行動を取ることができましたが,それを他の人に強要はしませんでした.でも,同じ状態になってもらいたいと願ってはいたようで,事実,弟子が覚ったときには非常に喜んでいます.)
- 頭のよい人、悪い人、仕事が出来る人、出来ない人・・・。私たちの社会ではそういう評価をつけられることがしばしばある。それらは比べるものがあってこその相対的なものにすぎないのだが、私たちが普段それをいかにも絶対評価であるように思い込んでいるかということに気づかされた。どんどん湧き出してくるサンスカーラに惑わされずに正しい認識・判断に基づく正しい行動が出来ることが中道だと知り、そういう風に生きていきたいものだと思ったが、正しいというの何を基準にしたものなのかわからないから、これが正しいなどといんちき宗教に訴えられたらひっかかってしまうと思った。釈尊の遺言にあるように、生じては滅するサンスカーラに十分注意しなければならないと感じた。(2年女子)
(インチキ宗教に引っ掛からないためには,日頃から“きちんとした信仰”を持つことが一番の方法です.)
- 人は生まれた時には相対的価値というものの見方を持っていませんが、生きていくうちに、相対的なものの見方をいつの間にか持ってしまうんだと思いました。そして、人や物など何かと何かを比べて判断してしまうのは悲しい事のように感じました。比べるって一体何なのでしょうか?相対的価値が人によって異なるから、難しいですね。自分自身、善悪を何で判断しているんだろうと考えました。ブッダ(仏陀,釈尊)
ブッタの遺言には感銘を受けました。一番大切なのは「今」ですね!!(2年女子)
(善悪の判断基準は,小さいうちにきちんと“フォーマット”されておく必要があります.そして,このフォーマット作業を正しく行ってくれるものが宗教に他なりません.「私は何の宗教も信じていません」と口外して憚らない人たちで占められている国,この日本はある意味でとっても異常だと思いませんか? )
- この授業を聞いていて、思い出す作品があります。その名も『ブッタとシッタカブッタ』(確かこんな名前だったかと。)豚を登場人物にした四コマなのですが、「常識」をもって読むとガツンとやられる感じです。他人の価値観に左右されたりとか、自分の価値観が相対的なものでしかないと気づかされます。「これ」という風に明記せずに、自分気付いて発見できるようにしてあって、釈尊の教え方に似ているなと思いました。色々な事に「とらわれない」(サンスカーラ然り)ことが大切だと再確認(何度目かの)した授業でした。(2年女子)
(ひょっとすると,一つ上の方が「ブッタ」と表記していたのは,この作品を意識してのこと?? (^^; )
- 確かに自分自身も、今の世の中に存在するいろんな判断基準によって他人や自分自身をも安易に判断してしまい、他人に対しての評価を見誤りがちになることが多いように思います。少しは反省した方がいいのかなぁと思いはしましたが、自分以外の他人が存在する以上そこに競争が生まれ、結果として相対的価値なり評価なりが発生するとも思う。自分自身「誰かから信頼されたい!」とか「認めてほしい!」と思うのはそのためだと感じた。少なくとも今の時代を生きる一人としてはそう考えてしまいます。(3年男子)
(別に「今の時代」に限らず,人の営みはそのようなものです.釈尊はそこに「虚しさ」を感じ取ったわけですが,「いや,虚しくないぞ.私はこれでやっていくんだ.」と思い切れて,堂々と生きていける人がいるなら,それはそれでいいのではないかと思います.)
- 常日頃、人は他人に対して頭が悪いとか、自分の力は優越しているとか思っていますが、それはあくまで他の人の存在があればこそそうなるのであって、もし自分一人ならばそれは意味を成さないということを聞いて感動しました。人が今の社会で中道に基づいた正しい認識、正しい判断をしていけたならばもっと社会は変わるのではないかと思いました。(3年男子)
(上の方でも書いたのですけど,まず自分から変わってみよう.そして,変わった姿を皆に見せてあげよう.)
- 他人と比べなければ人は自己嫌悪に陥ることもなくなると思った。だが、人は生れ落ち、自分を認識する際、他者を認識し初めて自分というものを認識できるようになるものである。それなのに今更他人と比べるなといわれても無理な話である。サンスカーラを通してしか世界が見えなくなってしまっている人達にとって釈尊の教えは到達困難なものであることに変わりはない。いかにして空の境地に至るかが今の私の課題になっているが、先は長そうだ。(3年男子)
(だからこそ大乗仏教が誕生したのです.まぁ,あまり結論を急がずに,もうしばらくこの講義にお付き合い下さい.)
- 相対的価値を絶対的価値だと思うことがありえる。確かにそうだと思います。価値付与の仕方は人それぞれで、そのことによって、誰かを傷つけてしまったり、事態を悪くしたりということはかなり日常でも起こりうることだと思います。でも、自分が価値を見出したものに自信を持つというのも大事なことだと思います。価値というのは、人が事物に対して与えるものであり、そのものの内面に本質的に備わっているものではないのではないかと思います。そういう意味では、そもそも絶対的な価値観というのはないし、ケースバイケースなのではないのでしょうか?うーん、こんなの書いてたら、俺って小さいなぁ、と思えてきました・・・。(4年男子)
(♪み~んな悩んで大きくなったぁ
ヒント:「絶対的な価値観」はなくとも,「絶対的な価値」はあるかも知れませんね.)
- 私たちは、毎日他人のある一面を見ただけでその人の全てを理解したような気になっているけれども、それは間違っているということが分かりました。高校時代などそのことに強く反発していたのに気づけば、自分もそのような考え方をしているのではないかと思いました。高校生の頃、成績や服装だけでその人の全てが分かったわけではないのに、それだけでしか判断されていないようでいやでした。日本は常に相対的価値で判断されていると思います。しかし、社会で生活するためには、先生もおっしゃったようにある程度の基準は必要でしょうが、一人一人が中道について意識すれば、ある一つの物事だけでその人の価値が決められてしまうことは、少なくなるのではないだろうか。(2年女子)
(どんな国でも社会を構成する際には,ある程度「比較」「相対的価値」を持ち込まざるを得ません.問題なのは,その基準だけが全てであるかのように錯覚してしまうことが度々あることなのです.)
- 相対的な価値観ということを考えると、世の中のほとんどのことは相対的なものだと思いました。逆に絶対的なことはありえるのかと考えたら、「死」ということは文句なしに皆にあてはまるから、絶対的だと思いました。(2年男子)
(論点がずれています.
“世の中のほとんどのことは相対的”なのではなく,相対的なのは“あなたのものの見方”の方です.また,「死」は絶対的事実に違いはありませんが,「相対的価値」云々という脈絡で取り上げる必然性は少ないように思われます.)
- 授業中に取ったノートを読み返してみて、“何かが欠けている状態”という言葉を空や中道についての説明の近くに書いているのですが、どの語句の説明となっているのかが分からないので教えてください。(2年女子)
(「空」の説明です.これは感想ではありません.質問だけなら研究室に聞きにいらっしゃい.)
- 仏教は、中道といい、色即是空といい、三法印といい、本当に万人共通の、普遍的なことを説いているなあと改めて感心しました。私は、この考え方をもっと早く知りたかったです。思春期には、私はよく「自分って何?」と常に問い掛けて生活していたように思います。時には、自意識過剰に、また時には羞恥心の塊でした。でもそれはすべてサンスカーラでした。他人と比べて自分の価値を見出す必要はなかったのですね。私は今でも人の評価を絶対的な価値として見出してしまうことが多々あるので、今日の講義は、とても心が癒されました。(2年女子)
(それは何よりです.
授業では偉そうに語っていますが,私だってそれほど誇れたものではありません.いろいろなことがあってボロボロになりそうなときもあります.でも,そんなときこそ“自分にとって何が一番大切なのか”を見つめ直す機会にもなっています.「分かっちゃいるけど止められない」の連続の中で,自分はどう生きて,何をつかんでいくのか.今後の自分に乞うご期待!! と,自分に言い聞かせています :-) )
- 人は常に相対的価値判断をもって生きていると思う。自らと他人を比べ、良いものと悪いものを比べる。そして自分が優れていれば安心するのだ。なんでもないものにさえ価値をつけ安心を得ようとする人間はなんて弱い生き物だと思う。そのために宗教のように救いを求めるものが必要となったのだろう。(2年男子)
(そうです.宗教は道徳でも倫理でもありません.泥まみれ(悪く言えば“クソまみれ”)で弱い人間が,“クソまみれ”のままで幸せになれる方法を教えることもあります.)
- 私は他人と比較することで相対的価値をもって物事を判断していました。他人と比べて自分の価値を見出していました。相対的価値を絶対的価値と時々考えてしまうこともありました。正しい認識と正しい判断に基づいて行動したいと思いました。(2年女子)
(「思った」のは大いに結構.早速「行動」に移してみましょう.)
- わからないことはわからない、と言えるのはすごいです。私はわからないのにわかっている様な振りをすることがあるので・・・。(2年女子)
(あはは.正直でよろしい.実は,私もそうです :-) )
- いつだって未来は心配です。今も、明日は舞台の本番なので、もしセリフをとちったらどうしよう、舞台袖でくしゃみをしてしまったらどうしようなどと考えしまうのです。しかし今日の授業の釈尊の「諸行無常である、歩み続けなさい」いうことばの時間論的解釈「過去を悔いず、未来を憂えず、時間は歩み続ける今のみ」ということを心において、今日のゲネプロで納得いかなかった音に替わる新しい音を探し、納得いかなかった演技をもう一度反省し、明日のために今出来ることをします。(2年女子)
(いわゆる一つの(←古いなぁ)「前向きな生き方」ですね.「前向きな生き方」が素晴らしいのは,その人自身だけでなく周りの人も幸せにしていく力を持っているからだと思います.)
- 人に出会ったとき、どうしても自分の中でこの人はこういう人だ、とある程度決め付けてしまうのはよくあることだと思います。そして、その人と付き合うことによって、ギャップに気づいていく。そのギャップがいい方向に働けばいいのだけれど、反対の方向に働いてしまうことのほうが多いような気がします。それによってその人との関係がうまくいかなかったりすることは、悲しいものです。
また、能力の有無を人と比べてしまい、それを絶対的な価値として悩んでしまうことが多々あります。サンスカーラから逃れることは、なかなか難しいですね。でも、同じ悩むにしても、それがサンスカーラなのだということを、知っているのと知っていないのとでは心の余裕がけっこう違うと思います。それだけでも、少し、考え方が一歩前進したような気がします。(2年男子)
(よりよい対処法・処方箋を見つけていきましょう.)
- 相対的価値なのにそれが絶対的価値だと思い込んでしまうということに、改めて気付きました。私たちはまさにそのような世界に、サンスカーラによって目を眩まされて生きているのでしょうね。釈尊が死ぬまで一貫してサンスカーラに気を払っていたということは、サンスカーラによって人の価値などを判断されそれが当たり前となった現在のような世界が来ることを見抜いていたのかな、と感じました。今回私は授業で他人を相対的価値から絶対的価値判断をしていたことに気付かされましたが、今日の世の中にはそれにまだ気付いていない人が多くいるのではないかと思います。(3年女子)
(おそらく,彼自身,湧き上がってくるサンスカーラに常に注意を払っていたのでしょう.それが実行でき方から凄いんです.)
- 中道と中庸が違う意味なのは知っていましたが、どっちがどういう意味なのかははっきり分かっていなかったので、今回の講義で明らかになってよかったです。人(物事)を一面だけで判断してはいけないとよく言いますが、実際はある一つの相対的価値で、その人の絶対的な価値を決め付けてしまっているのが、今の社会だと思います。そして私も同様です。何をもって正しい判断、正しい認識を得られるのだろうか?残念なことに、このようなサンスカーラのしがらみから抜け出し、中道に達する日は遠そうです。(2年女子)
(繰り返しますが,大乗仏教の登場までお待ちを.)
- 相対的価値による判断が、絶対的価値によるものと思いこまれてしまう、というお話はよく理解できたと思います。しかし、それに対する「中道」という立場を、絶対的な立場として定位してしまいがちだと思います。(釈尊はもちろん、先生もそのようには語っていないとは思いますが)。それは、一つの安定した立場ではあり得ず、絶対的価値判断に対しては、常に相対性を持ち込むような、耐えず移動を繰り返す「態度、姿勢」のようなものだ、と理解しました。しかし、こういうふうに言うと、虚無主義のように聞こえてしまいがちな気もします。そこを先生はどのように考えているのか気になるところです。(4年男子)
(中観派の創始者とされる龍樹(ナーガールジュナ)は,空・中道が絶対視されることを非常に危惧し,様々な方法で人々の「真理とされるものに対する執着」を取り除こうとしました.どんなに素晴らしいものであっても,それが煩いの種になるなら捨て去るべきなのです.それがたとえ「空・中道」であったとしてもです.なぜなら,その「空・中道」は,もはや「空・中道」としての本来の意味・働きを持っていないからです.)
- 『空(そら)』と聞くととても晴れ晴れした感じがするのに、『空(くう)』と聞くとなんだかとても淋しい感じがするのは不思議だ。たぶん『空(くう)』と聞いて淋しい感じがするのは、そこになんにもなくてガランとしたイメージを持ってしまうからだと思う。それなのに実は、「なんにもない」ものの正体がなんとサンスカーラだと言う。無い方がよいものが無い事に淋しいと感じてしまうなんてとても複雑で皮肉だ。(2年女子)
(言語感覚の問題でしょう.しばらく付き合うと言い回しに慣れますよ.)
- 人は「足が速い」とか「頭がいい」といった相対的価値にとらわれ、それを絶対的な価値と勘違いしているということに気づいていない。だから悩まなくてもいいことに頭を痛めたりするのだと思いました。中道の意味をきちんと理解していればそんなことに悩まなくてもいいのかとも思いますが、今、私達が生きている社会では学校教育など、相対的価値を絶対的価値のように見るシステムができあがっていて、それについて悩んでいる人も少なくないと思います。だからこそ、仏教にあまり興味がない人でも中道を正しく理解することは何かの助けになるんじゃないかと思います。(2年女子)
(そうですね.別段信仰しなくても,「こういう考え方もあるんだよ」と助言されるだけで,袋小路に入り込んでいた気持ちが解放されることもありますから.あなた自身がその助言者になってみてはどうですか? )
- 人やものを何かと比べることで、挫折感を感じることは少なくない。しかし逆に安心することもある。現実として、小さい頃から比較だらけの環境であったように思われる。なにか比較という作業に依って、自分の存在意義なんかを確かめていたり・・・そう思うと、相対的な価値観を持ってしまうのは仕方のないことかもしれない。ただ、そのようなことについて`相対的である´ということに気付いていないのは、問題があると思う。絶対的というものが見定め難いから、人と比べて(あるいは何かを基準に置いて)物事を判断しがちになってしまうのだろう。 講義を通して、仏教を身近に感じられるようになったものの、それと同じぐらい深くて難しいなと思うようになった。(2年女子)
(仏教は一生(輪廻を前提にすれば幾生も)かけて学ぶに値すると思っています.興味があれば研究室を訪ねて下さい.)
- 中道、空を知ることによりサンスカーラを通さず、物事をありのままにとらえることがいかに難しいか分かった。たくさんの人にあてはまることだと思うけど、私は常に物事に優劣をつけたがってしまう。そのことを自覚すら出来ていなかった気がする。変な話だけど、それくらいに単純な事実をありのままにとらえることこそが難しくなっていると思った。自覚すらしていない人の中で釈尊はどのようなことから疑問を感じ、考えを深めていったのだろうか。(2年女子)
(釈尊の場合,人が生まれ,老いたり病んだりしながら死んでいくという,極めて当たり前の事実の観察が出発点の一つになっています.)
- 正しい認識・正しい判断に基づく正しい行動(中道)をしていけるようになりたいです。私も対人関係では相対的な価値判断をしたあと、そこに絶対的価値があるものと思いこんで、勝手に相手の人格や価値を決めつけていました。ある分野における能力のあるなしはその人の価値とは相関しないし、人の価値は誰かと比べられるものではないという大切なことにも気づきました。「空」のままに、もっとストレートにものごとを見ていきたいと思います。
釈尊の遺言の時間論的解釈が心に残りました。悔いのない過去、希望ある未来へつながっていくと思うので、「今」を大切にしっかり生きていきたいです。(2年女子)
(これまた「前向き」! 先生は嬉しいぞ!! )
- 物事(対象物)に起こった事実は事実であってそのことに価値判断、意味付けをしていくのは自分である。サンスカーラは絶えず移り変わるものであるから、勝手な思い込みはどんどん作られていったり、消えていったりする。物事は空であるから中道をもって接するべきである。アタシにとって中道をみにつけることは目標であって、そうではない気がします。いろんなことにたまには惑わされてスリルを味わうのもおもしろいなと思うからです。しかし、中道を持って人には接していきたいなとおもいました。相手に対してさまざまなサンスカーラをくっつけていくのはたしかに良くないことであると思います。私も相手に断定されたくないし。。。この授業を受けて人生観変わりました。ありがとうございました(2年女子)
(そこまでこの講義を活用していただけて,こちらの方こそ恐縮です.)
- 先生の説明は本当にわかりやすいですね、りんごにチョーク! 私は人間の「絶対的価値」や「価値判断」はある種の普遍的なもので、“人間”である限りそれから離れて生きることは非常に難しいと思います。であるために釈尊は「気をつけて生きなさい」という言葉でとどめたのではないでしょうか。反対に、大切なのは、自身がその絶対的価値やサンスカーラに何らかの要因により気付き、反省したときではないでしょうか。それまでの価値観を反省することは、自身の生き方をも振り返る事に帰結するはずです。そしてその反省の後、また新たな絶対的価値を作り上げていってしまうのが人間の性でもあると思います。まるで人間は何度も脱皮する蛇のような存在ですね。そんな中で、今日の講義は自身にとって生きていく上での一つのポイントであったと思います。…それにしても諸行無常であること、歩み続けることは何と難しいことでしょうか。人間の重みを感じる授業でした。(2年女子)
(正直,驚いています.“あたかも蛇が脱皮するように,修行者は執着を離れる”というのは非常に古い(初期の)仏典に表れる記述で,もしあなたにその予備知識がなかったとしたら,あなたの観察眼はかなり高レヴェルということになりそうです.)
【総評】最後の“蛇”について書いてある感想,いやー,びっくりしました.こういう嬉しい驚きがあるから教壇に立たせてもらうのにも一層張りが出ます.どうもありがとう.(鈴木隆泰)
suzuki AT ypu.jp