10/25 授業の感想3号と回答
感想3号(総数 75)の結果をお知らせします.「自分の意見が載っている,載っていない」「教員のコメントの内容」などは成績評価や感想の質には全く関係ありません.ただし「感想の内容」は評価対象となっています.
複数の同一または類似の感想は,原則的に最初に目についたもののみを採用しました.
原文の一部を修正したものがあります.
男子・女子の区別は氏名に基づく判断です.もし間違っていたら遠慮なく申し出て下さい.
今回は,宗教の働きの一つとして「補償作用」を取り上げて説明しました.
- キリスト教やその他の宗教は人間の無知を埋めるためにあるのだと知り,なるほどな。と思いました。しかし実際、信じる人と信じない人がいますがどんな人が一番はまるのですか?(3年女子)
(うーん,なにか少し誤解があるような.人間は何らかのかたちで補償を求めます.それが何かの宗教であれ,個人的な妄想であれ. あなたの言う「はまる」が「おかしな宗教にはまる」という意味なら,まともな宗教におけるきちんとした信仰を持っていない人がはまりやすいです.)
- 宗教には、人間の補償作用をさらに補償する力があるけれども、だからこそなおさら宗教対立は根強いのだと感じました。宗教とは本来釈尊が考えたように心の平安を得るためのものだけれども、今世界でその宗教によって戦争が起こっていることは、とても皮肉だと思います。(4年女子)
(これも少し違います.人間が求める「無知に対する補償作用」,その一部を宗教が果たしているのです.)
- 仏陀は今まで、存在意義の補償作用を輪廻で埋めていたが、その補償作用を必要としなくなったということですよね?その代わりに、私は私で生きていけるという補償作用を見つけたわけですよね?(3年女子)
(前半はその通りですが,後半は違います.彼は自己存在に関して,何からのサンスカーラによる補償を必要としなくなったのです.すなわち,一切の補償作用を不要としたのです.)
- 毒矢の例で「安心して生きていれば無宗教でも良い」との説明がありましたが、心の平安なんてありえないのではと思いました。人は事あるごとに悩みにぶつかり、それを乗り越えていくことで成長していくのでは…
うわつく心が毒だと話されていたけど、それが人間の本質なのではないだろうかと思ってしまいました。(3年女子)
(「人は事あるごとに悩みにぶつかり、それを乗り越えていくことで成長していく」ことと,サンスカーラを離れてありのままにものを見ていくことは対立しません.言い換えれば,「心の平安があること」と「悩み,苦しみが何もないこと」とは同じではないのです.問題は「悩み,苦しみの質」なのです.人は時に,どうしても解決できない問題に悩み苦しむこともあります.釈尊はこの手の悩み,苦しみを制します.一方,解決できる問題ならば,全力でそれにあたって解決すればよいのです.その努力を釈尊は否定していません.)
- 無知(無明)による恐怖を埋めるための補償作用が宗教だとしたら、人々が宗教を求めるのも納得できる。どんな手段であっても心の平安を得ることが大事とし、形而上学的論争を放棄し、さらに自分の考えを弟子にさえ押しつけないという釈尊の考え方はとても気にいった。キリスト教のイメージで宗教を捉えるというのは日本人が陥りやすい誤解だと思った。でも仏教も立派な宗教だとわかった。毒矢の例は二回目の説明でわかった。鈴木先生の授業は例があってわかりやすくていいといつも思う。(2年女子)
(これからも分かりやすい授業を心がけます.)
- 今までは敬虔な宗教信者の考えが理解できなかったけど今日の講義で形而上学的問題の無知にはたらく補償作用の話を聞いて、あの人(知り合い)は無知の部分をキリスト教の教えで埋めているのかもしれないと、少し理解することができました。もしも今日の講義を宗教論争や宗教をめぐって戦争をしている人達が聞いたらどんな反応が返ってくるだろうと思いました。(2年女子)
(「お前は神を冒涜するのか!!」と怒られそうです (^^; )
- 形而上学的問題に対する無知への恐怖とそれへの補償作用、というのは、現われ方は違えど誰にもあるものなのでしょうか。科学もまたそれを埋めるために発展しているもののひとつだと思いますが、その考え方だと科学も宗教のひとつということになるのでしょうか。(2年女子)
(科学は無知に対する補償作用ではなく,無知を知に変えようとする営みです.でも,「科学で全て解決する,科学は万能だ」と極め付けるのはもはや一つの宗教です.もちろん,「科学で全て解決しない.だから霊は存在する」というのもサンスカーラです.分からないことは分からないとして,どこまで分かったのかを明確にすること,これが科学的な立場なのです.)
- 以前、川口先生のゼミで「人間は笑う葦である」という土屋賢二氏の著書について考察したのですが、それとにている部分があるなよ思いました。というのは、「本当の自分は誰であるか」という問い自体がナンセンスであり、答えを見つけられないことは不幸といえるのであろうか。というものでした。色々な講義を聴いていると、何か一貫性があるなあと感じる、今日この頃です。鈴木先生の講義は分かりやすいし、自分のためになり、純粋に好きです。あたしも、「輪廻は尽きた。解脱した。」「私は私で生きていける」と悟りたいですな。(2年女子)
(悟ったら是非仏陀としてご教示を.)
- 「輪廻は尽きた。解脱した。」というところで、「私は私で生きていける」というのが私には少し悲しく寂しく感じました。うまく言えませんが、他の人との関わりを拒否しているような感じで。苦行もそんな感じがします。(2年女子)
(他人に本当に優しくできるためには,個人として独存できなくてはなりません.そうでなければ他者との間に何らかの依存関係が生じ,結局は相手を巻き込んで不幸にしてしまうことがあるからです.)
- 今日の授業でなぜ宗教があるのかが少し理解できました。私たち人間の力では解決できないものに対して答えをくれるものであるから。しかしその答えでさえ、輪廻など、形而上学的であるのではないかと疑問に思いました。とすると、またそこで答えを求めようとするのでは?と迷路に入ってしまいそうです。そして「心の平安」とは個々によって違うかもしれないけれどそれが完全にある状態というのはあるのでしょうか。どんなに心が安定してもいつも多少の不安をもって生きているのが人間だと思います。(2年女子)
(「しかしその答えでさえ、輪廻など、形而上学的であるのではないかと疑問に思いました」とありますが,そもそも解決できないから形而上学的問題なのです.「どんなに心が安定してもいつも多少の不安をもって生きているのが人間だ」,そういう見方もできるかも知れないですね.上の方でも書きましたが,要は「不安の質」だろうと思います.)
- 人は、無知(無明)に対して恐怖を感じ、分からないことを分かろうとすることから補償作用が生じ、ついにサンスカーラという現実世界に対して誤った認識を持ち、そうすることで現実世界を生きることができるのだと、今日の講義で学びました。そのような補償作用を拒否し、輪廻〔という観念・妄想〕から解脱したのが仏陀でした。宗教というのは本来心の平安を与えてくれるものであるということを改めて感じました。現代では宗教のあり方が様々にゆがめられているため、宗教のために人が存在しているのではなく、人のために宗教があるということを忘れてしまいそうです。(2年女子)
(現代のみならず,宗教は様々に歪められ,そして政治的にも利用されてきました.宗教という側面から人類史を見直してみるのもとても興味深いですよ.)
- 最初毒矢は形而上学かと思っていた。でも全く違って心の平安を乱すものであった。何千年前の人であるのに人間の性みたいなことを考えたと思うとすごい人なんだと思う。
「自分探しの旅」とか、現代人がいかに心の平安を得ていないか感じる。心の平安を得た人はみんな仏教徒なんでしょうか?(2年女子)
(当の本人はそれを否定するかも知れませんし,それで全く構わないのですが,仏教に即して言う限りにおいて,その人は仏教徒です.これはキリスト教などの教徒が「万物は神の創造物だ.あなたも私もそうだ.」と主張するのと,論理的には同様の構造を持っています.)
- 宗教は形而上学的な疑問の補償作用の役割もあるということを「殺しはなぜいけないのか」で例えた場合の答えが「法律にあるから」ならそういう場合もあると考えられるが、「悪いことだからいけない」というのがどうして答えになっているのかがよくわからなかった。(2年女子)
(うーん (-_-; 「なぜ分からないのか」がまさに問題となっているのですよ... 善悪の規準を教えるのは法律ではなく「本物の宗教」なのです.)
- 釈尊は凄いですね。無明を受け容れて生きたなんて。私には出来ません。私は答えが存在するものでも分からなかったらすぐ調べる性質で、形而上学的なものに対しては心を捉われることはないけど、ふっと思い出しては考えてしまうことがありますから。わからないものはわからないまま生きる、出来そうで出来ないことですよね。それで心の平安を得るなんてスゴすぎです。(2年女子)
(釈尊はサンスカーラを通さずに世界を把握することに成功し,その結果無明を克服したのです.サンスカーラを通さずに見た世界がどうであるかは,仏陀でない私には知る由もありませんが.)
- 今日の講義の、人間は無知が怖いという話は納得しました。その為の補償作用を否定しない釈尊の考えや仏教って結構普遍的な感じがしました。(2年女子)
(普遍的だったから世界宗教の一つになったのだと思います.『マトリックス』,見てみます.)
- 宗教とは人間の無知への恐れ、その無知な部分を部分を埋めるための補修作用。人は科学の力でさまざまな謎を解き、ひとつでも多くの知らないことを消そうとしてきた。たとえそれが間違った認識であっても自分自身にそう言い聞かせることで人間は生きていく。物事のなんであれ、自分が信じたものは宗教となり、自分が信じたものが真実となる。そんなよりどころのひとつとして仏教は生まれたのだと思いました。(2年男子)
(最初の下線部は少し言い過ぎ.「宗教には補償作用がある」と言い換えた方が無難です.後半の下線部は誤りです.ある人にとっての真実が別の人にとっての虚偽となる場合もあります.仏教はそのような状況から一歩退いたところに立っているからです.)
- 一体、仏教って何でしょう!?…これから勉強していくものにはやくもこんなこと言ってはいけないのかもしれないですけど(^^;) 私たちは自分の中にある隙間を埋めるために何かが必要で、それがなんだかはわからないけど、大概は宗教というものによって埋めてもらって。こうやって考えると、宗教というものがあってこそ人間が「穴」をあけたまま暮らすことがなくって、でも人間は人間のために宗教はつくりあげられた、と考えている…なんだか矛盾を感じてしまうのは私だけでしょうか?…鶏と卵、ですね、なんとなく。(2年女子)
(下線部のように捉えるのはあくまで学問的な立場です.)
- 形而上学的なものが自分の存在を
保障補償してくれるとか、それから心の平安を得ることができるとか、そのへんがわかりにくかったです。形而上学的問題にふりまわされるから人は心の平安を得ることができないのではないですか。そのへんがこれからの授業でわかっていけるといいと思います。(2年女子)
(心の平安を乱す原因には形而下のものもありますよね? もしあなたが形而上学的なものだけに心が乱され,それを離れれば心の平安がないというのであれば,いわゆる「宗教」はあなたには必要がありません.それはそれでいいと思います.)
- 私には、人を殺してはいけない理由が宗教での「殺してはいけないから駄目なんだ」というよりも、哲学での「自分が殺されるべきではないから人も殺してはいけない」というほうが、何だか分かりやすいと感じた。(2年女子)
(もしあなたが本当にそう考えているとしたら由々しき事態です.もしそうであるなら,自殺を考えている人は他人を殺しても構わないことになりませんか? もう一度よく考え直してみて下さい.)
- 釈尊は私は私で生きて生けると、サンスカーラに頼らない境地に達したということでした。強いな〜と思います。でもそれが彼の心の平安を得るためになるんですよね。私は知らず知らずのうちにサンスカーラに頼って生きてきたでしょう。私はそれで心の平安を一見保っているんだと思います。しかし頼りすぎたら…ギャップに気づいたら…それはそれでまた不安、無知への恐れにつながってしまうと思いました。今日は講義で'心の平安'という言葉が何回も登場しました。この講義でいっぱい頭を使って考えていきたいです。(2年女子)
(考えていきましょう.)
- 仏教について学んでいけばいくほど、仏教の魅力というか深さというか、面白さに引き込まれそうになります。講義の中で先生は「死んだらどうなるのか考えるのは人間だけではないか?」と言われましたが、私もそう思います。人間はいろんな事を学習し、考え、理性や経験では答えの出ない形而上学的なことに恐怖を感じ、知りたいと思い、考えるから苦しむのですね。縁起の説明、分かりやすかったです。(2年女子)
(興味を持ってもらえて何よりです.)
- 人間は知恵を得たが上に大きなリスクをしょってしまった。考えれば考えるほどに答えは出ない、そんなものにおびえながら生きていかなくてはいけない。それを克服するための宗教の必要性を考えたら、興味深いには興味深いのだが、ある意味滑稽なものを感じとらずにはいられなかった。(2年女子)
(あなたもその悲喜劇の主人公かも知れません.)
- 宗教は人が救いを求めたい時にすがるもの、というイメージがありました。でも、仏教は自分の力で苦しみから抜け出すという強さがあることを感じました。救われたいならこうあるべきだ、という教義がないのは陰気な感じであった私の宗教観を変えるものでした。現実の世界と自分のイメージの世界とのギャップは誰しも感じながら生きているものだと思います。私たちは現実の世界から逃れられないのは確かだし、イメージの世界との間で苦しむことからも逃れられない気がします。でもそのギャップを埋めていくのは自分だから、結局「苦」からも逃げられないのかなあ、と思いました。(3年女子)
(確かに仏教には「自力」の面がありますが,そればかりでもありません.「絶対他力」を押し進める動きも仏教にはあります.)
- 宗教(religion)といえばキリスト教を基準にしたものを指すことについて、それがキリスト教の信者であれば自然なことだと思うけれど、それが違う文化圏においてもそのような認識をしてしまいがちなのには驚いた。きっと身の周りにはもっとそういう認識の誤解があるんだろうと思う。(3年女子)
(違うものを違うものとしてきちんと認識することが大事だと思います.)
- 釈尊の言うように,確かに人間はわからない事を知りたがり 追求する唯一の動物であると思う。そして あらゆる場面で学習し経験や論理で説明できない場合は、イメージによってその部分を埋めようとする。これが釈尊のいうサンスカーラである。宗教にかかわらず、人間誰もが このサンスカーラのような行動はとっているが テレビの一般化に伴い最近は昔ほど想像する機会が少なくなったように思う。釈尊の生きた時代が、もし現代のような時代だったら、サンスカーラのような悟はひらけなかったであろう。現代人は生活の上では豊かだが、想像力の上では 昔に比べると はるかに乏しい気がする。(2年女子)
(TV 等の普及による想像力の欠如と,釈尊の覚りとが関係するかどうかは,私には疑わしいです.なぜなら,今,私たちが覚ることができない原因を,TV の普及に押し付けているように感じるからです.どのような時代でも聖者は現れる可能性があると信じたいです.)
- <無明→苦→補償作用=サンスカーラ>←縁起。これを悟った釈尊は解脱し、形而上学的論争を放棄することを宣言した、ということはすごく理解しやすかった。(4年女子)
(下線部は誤り.〈無明 → サンスカーラ(補償作用) → …… → 苦〉 ← これが「縁起」です.)
- 日本人は宗教的な教育をほとんど受けていない、だから不安になったとき簡単に新興宗教に補償作用を求めてしまう、ハマってしまうというのは分かる気がした。「なぜ人殺しはいけないのか、なぜ売春はいけないのか」という問いには答えに詰まってしまう。将来自分の子供に聞かれたら何と答えるべきか、今頃から心配になる。やはり、「いけないことだから」としか言えない。(4年女子)
(ああ,理解してくれている人もいたんですね! 嬉しいです.)
- 人間は無知が怖いものらしいですが、「無知の知」という言葉はあるものの、知らないこと自体知らないという「無知の無知」があるとすれば私たちはそれを怖がることはできるのでしょうか?つまり何も知らなければ怖くないのではないでしょうか?こんがらがってます。(3年男子)
(「知らない」ということ自体に気づいていない場合,恐怖が生じることはありません.人間「知らぬが仏」とも言います.)
- すごく面白い授業でした。
今日の授業を聞いてふと思ったんですが、人口はどうして増えるのでしょう?仏教の考え方では人は輪廻によってぐるぐる生まれ変わっているのだけど、そうすると人の増減ってないのではないかな〜と思い至ったわけです。
こういうことを考えて心の平安を失ってると、私も毒矢を抜かずにいる人なのかな?
ところで、今日の授業を聞いて「メビウスの輪っか」を思いだしました。前に友達とこれについてああだこうだと話してたのです。結局結論めいたものは全くでなくて、ふと、これが形而上学的論争かなと思ったのです。(関係ないことに話がそれてしまいましたが、今日の授業と私の中で重なるとこがあったので…)(2年女子)
(輪廻の考えに沿えば,解脱していった者を除き,「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・神々」のいのちの総量は変わりません.ですから,人口自体の増減は当然あり得ます.
メビウスの輪の件,それが本当に形而上学的論争だったのか,それともメビウスの輪に関する数学的知識の欠如による議論のすれ違いだったのか,このお話だけでは分かりません.よかったら教えてくれますか? )
- 今日の講義で、人間の持つイメージと現実との間にギャップがあるということがより一層はっきりとつかめてきました。また、人間は常に自分が「無知」であることを恐れていて、そのために物に名前をつけたりするということは、とてもよく分かりました。確かに、「恐怖」を感じるかどうかは分からないけれど、名前のない不確かなものに何か違和感や居心地の悪さに似たような気持ちを自分が抱いていることに気づきました。サンスカーラは、勉強していけばしていくほど、自分のなかにある、自分自身も気づいていない感情に気づかされ、楽しいです。(2年女子)
(何よりです.授業をやっている甲斐があります.)
- なぜ宗教はこんなにも長い間人間に支持され続けてきたのか、ずっと疑問でした。ある程度年月が経ってしまうと、大多数のものは忘れられたり廃れたりしてしまいますが、宗教だけは新しい世代にもどんどん受け入れられて続いています。今日の授業で分かったのですが、心に平安をくれるもの、形而上学的問題に対して補償作用をもたらしてくれるものだから受け入れられて続いているんですね。以前、キリスト教徒の外国の知り合いが「人は心に悩ましいことがあるとき教会に来るんだ」と言っていた意味がやっと分かったように思います。やはり心は平安でなければいけませんね。 釈尊の「脱形而上学的論争宣言」は頭で考えれば自分にもできそうですが、実行するのは難しそうです。不要なサンスカーラに左右されない境地にとても興味を持ちました。(2年女子)
(「サンスカーラに左右されない境地」に達する方法は様々で,各自が好きな方法を選べばよいというのが仏教の立場です.興味を持ってくれて嬉しいです.)
- 宗教は、自分で解決できないことにおいて拠りどころとなる、本人にとっては自分が救われるところですよね。よく考え、よく悩む人ほど必要なものなのかもしれないですね。誰だって悩むし人に相談します。宗教とはなにも特別なことではなく、そういうことの延長なのかなと思いました。日本人は宗教に対して誤ったイメージをもっていると聞いて、自分も例外ではないことに気付きました。あまり関係ないのですが先日オウム真理教の潜入取材の番組を観ました!(3年女子)
(オウム,相変わらずですよね (-_-; 彼らの「世俗の法と超俗の法とをごっちゃにする姿勢」に強く反発しています.そうそう,こういう姿勢って他の宗教団体にもありますよ.)
- 毒矢の例えがよく分からなかったのですが、これは、答えの出ないことで身を滅ぼすよりも補償作用で身を守るということですか?(2年女子)
(そうではありません.答の出ない問題に執著して心を掻き乱している人(形而上学的議論に溺れている人)は,毒矢が刺さっているのにあれこれ言い訳をしていつまでも抜かない人と同じである,ということです.無知に対する補償をして,心の平安をもたらしてくれるはずのものによって,かえって心の平安を乱しているなら,その補償作用を見直す必要があることを説いたものです.)
- 毒矢の例えについて、自分の生活の中にも似たようなことがあるなと思いました。いくら考えても解決しそうにない問題をくよくよと考えてしまい、結局何のために考えているのかわからなくなってしまうことがしばしばあります。無知に対する恐怖もなるほどなと思いました。僕は人見知りをしてしまうので、よくわかります。相手のことを知らないから警戒してしまう、それもやはり無知の恐怖なんだと思います。(2年男子)
(実感や経験をともなっていると理解しやすかったようですね.)
- 「釈尊は形而上学的論争を放棄することで、サンスカーラの呪縛から逃れ、解脱し、心の平安を得た。しかしそれを弟子たちに強制はしなかった。(1)」という事でしたよね?(今手元に授業のノートがないので少し自信がないのですが…) 釈尊は本当に心の平安を得た後はサンスカーラによって、ギャップの苦しみを受けることはなかったのだろうか?そんな生活が本当にできるのだろうか…?(2) だいたい、毒矢を先に抜いたとしても、普通ならその後「誰がやったんだ!」「なぜだ!」と思い悩むはず(3)。弟子たちに強制はしなかったとの事だが、それは正しいと思う。そんな事強制されても並の人間にはまず出来ないだろう。まぁ、それをやってのけたのだから釈尊は「仏陀」と呼ばれ、その教えが世界三大宗教にまでなっているのだろうけど。
(2年女子)
(下線部 (1),正解です.
下線部 (2),あなた自身が記しているように,だから彼は仏陀釈尊なのです.
下線部 (3),犯人が突き止められるならそれを突き止めたらいいです.でもそれは必ず毒矢を抜いた後でなければなりません.「毒矢の例え」は,決して「犯人探しをするな」と言っているのではないのです.)
- 仏教とは、決して他に頼るのではなく、あくまでも自分の力のみで苦しみから抜けだすということ、という内容に大変な衝撃をうけました。仏教は人間の苦しみや恐怖などと共に共立しその信者の信仰心と共にその望むべき姿に変化していくものである‥などという様な仏教観を持っていた自身にとって、その仏教のもつ独特な、信者からの“独立性”にキリスト教や神教などとは全く異なる強い“芯”を感じました。実は私の実家は神社にご奉仕しており、今年の夏は直階(神主の一番下の位です。)の資格も取得したのですが、この授業を受けてその本質の大きな違いに、今はっきり言ってとまどっているところです。私はいつも神教が悪い意味で「伝統的」なものになりつつあるという実感に、一奉仕者として危惧を感じらずにはいられないのですが、この授業で仏教について学ぶことにより、もっと自身の宗教観や神教観についてより客観的に考えていくことができると思っています。また前述した自身の仏教についての「思い込み」のように、同様に神教についてももっと学ぶべき本質が存在しているに違いありません。(もっとも「古事記」などの神話が存在している時点から、神教は基本的に「サンスカーラ」なのではないかと思うのですが‥。)とにかく授業には最後まで集中してのぞむつもりです。よろしくお願いします!(2年女子)
(よーし,ついて来いよ!! ただし下線部はちょっと分かりにくかったです.)
【総評】「毒矢の例え」は,分かりやすかった人と分かりにくかった人に分かれるようですね.そのあたりの事情は引き続き考えていくことにします.(鈴木隆泰)
suzuki AT ypu.jp